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もうひとつのチャンネル ブッダのまなざし

文・蒲 信一(かば しんいち)

「ご相談があるんですが、会えませんか」その電話がかかってきたのは日曜日の午後、何軒も続いた法事も終わり、ホッと一息ついていたところだった。「会うことはかまわないけど、電話で話してから会ってみても良いんじゃない?」私がお寺で「心の相談室」を開いてから、一月に 2〜3件の相談が入る。そのほとんどが電話での相談で、直接会うことは希だった。私に顔を見られることを避けたがることがその原因だろう。だから、電話での相談が当たり前になっていて、「会えませんか」と言われた時は少し面食らった。

「いいですよ。会いましょう。どこにしようか」私は彼が暗いもの言いをしていることで、直感的に賑やかな場所を提案した。心が閉じたような状態の時、イメージの暗い場所での接見は気分が転換できない、そう考えたからだ。結局ショッピングセンターの中のコーヒーショップで彼と出会った。彼は年齢が25〜6 歳、ごくごく普通の青年だった。

「職場を何度も変えたんです。人間関係がうまくいかないんですよ。私はどこか問題があると思います。欠陥人間なんですよ。今まで何一つうまくいった試しがない。自分に自信が持てず、どんどん落ち込んでいくんですね。もう生きていたってしょうがないと…。自殺を考えているんですけど、一方でそれを止めようとする声みたいなものも聞こえるし。死ぬ前に誰かの意見を聞きたいと思って、それで電話したんです」

私は深刻な顔をして聞いていなかった。というよりも、わざと深刻な顔をしなかったのである。だからといって、ふざけた顔で聞いていたわけでもない。聞いているこちらが、根を詰めたような雰囲気になって、彼がいっそう深刻になってもいけないと思ったからだ。しかし正直言って、責任は重大だし、気は相当重かった。

30分ほど、彼のこれまでの生き方をじっと聞き入った。その中で気になるもの言いがあったので、それを言葉に出してみた。「君は先ほどから、自分はこう思う、自分はダメだ、自分は生きていても価値がないってよく言っているよね。私から見ると、とても自虐的なんだけど、ちょっと決めつけが多くないかな。私が君自身の立場になったら、何だかとてもかわいそうになっちゃうんだけど」それに対し、彼は自分のことは自分が一番よくわかっていると言った。「自分が一番よくわかっているなら、なぜ自分をいじめるようなことをするの?他人が自分をいじめるより、自分が自分をいじめる方がずっとキツいんじゃない?」私がそう言うと、彼は黙って下を向いた。それからあまり話さなくなってしまった。私は沈黙に弱い。カウンセラーとしてこういう場合にはどうしたらよいのか、頭の中はグルグル回っている。

そういえば、歌手の島倉千代子さんが、昨年6月に自殺しようとしていたことを独白していたことを思い出した。人間関係のストレスにより、自分をこれまで支えてきた歌がうたえなくなったことが、彼女に自殺を決意させたそうだ。「これまでどんなことがあっても、歌があるから耐えてこられた。しかし歌をうたえなくなった自分には、まったく生きている意味がないのでは」と感じたのだ。しかし彼女は死にきれなかった。そしてその年の紅白歌合戦に、「紅白に出て欲しい歌手」として、8年ぶりの出場を果たした。そのことが彼女に再び生きる意味を与えたそうだ。「多くの人が、私の歌を待っている。そのことが私を甦らせた」と彼女は語る。

ブッダ(お釈迦様)は「生きるということは、総じてもって苦である」とおっしゃった。実にその通りである。生きていると、次から次へと苦難が襲いかかる。病気の苦しみ、人間関係のストレス、仕事上の問題等々…。その苦難に打ちのめされ続けていると、人間は自分を無価値と思い込むようになる。

現代の日本人は彼と同じように、「自分」という一つのチャンネルしか持っていないのではないか。だから「自分」が自分を「無価値」と感じてしまったら、すぐに自らのいのちを絶つことに結びついてしまうように思われる。ネットで自殺の意思を確認し合い、車の中に練炭火鉢などを持ち込んで集団自殺してしまう事件は後を絶たない。ブッダは「あなたはあなたとして尊い」と言われた。私たちはブッダから「汝よ、尊きいのちよ」と、2500年前からずっと呼びかけられていることを知らない。

前述した島倉千代子さんは、たまたま歌手という仕事をしていたため、「自分」以外の「ファン」というチャンネルを持っていた。そのことが彼女を自殺から救ったのである。もし子育てに疲れ果て、自殺を考えている人がいるとするなら、自分のチャンネルを離れて、子供のまなざしに立ってみてはいかがだろう。自分に子供のチャンネルを加えるのである。

宗教も同じである。宗教を持つということは、自分というチャンネルに、ブッダやイエス・キリスト、親鸞や日蓮、そうした人々のまなざしを加える、ということである。

そうだ、彼にこの話をしてみよう。自殺をやめなさいと言ったって、するものはする。自殺するだのやめろだのと言うより、こんなまなざしがあるんだということを私は彼に話してみた。彼はじっと聞いていた。そして一言、「確かに、これまで自分を決めつけていました。島倉千代子さんみたいに自分の本当の価値がわかればうれしいのに」と語った。「それこそ人間の一番大事な仕事じゃないかな。一生をかけて自分の価値を探していく。そこに人生の意味があるんじゃないの」
彼は言葉少なに「どうもありがとうございました」と言って、その場を去った。彼が自殺を思いとどまったかどうかはわからない。でも帰り際、少し顔が明るくなっていたように感じた。

すべてのいのちに慈愛をふりそそいだブッダの言葉が、そぞろに私の胸にしみ入ってくる。

「あたかも、母がそのひとり子を
おのが命に代えて守るがごとく
生きとし生けるもののうえに
かぎりなき慈しみの思いをそそげ
上にも下にも また四方にも
うらみなく、敵意なく、ただ慈しみをのみそそげ」

(経集1-8慈経)