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筆者をたずねて

専福寺 前住職 二階堂 行邦 先生
(著書/『自分が自分になる』『念仏に生きるとき』他)

先代の住職が早くに亡くなり、23歳で寺を継いで半世紀以上。その間、多くの出遇いによって、
人生に大きな影響を与えて頂いたと語られる 二階堂先生。
中には安田理深、曽我量深 両先生との出遇いも。
しかし、その当時を振り返ると、苦い思い出もおありだとか。

京都の大谷大学を出てから、友人に誘われて、東京での勉強会を作ろうということになって、年4回だったかな、安田先生に京都からご出講いただいて約3年間、友人や門徒さんたちと学びを続けたんです。
最初に講師のお願いに行ったときに安田先生から、「お前、ひとりになっても聞く気があるのか?」って聞かれて、「ありません」とは言えないから「はい、聞きます」って言って。そしたら本当にひとりになってしまって(苦笑)、門徒さんはいるんですけど。門徒さんは凄いなと思いました。他のみんなは次第に来なくなっちゃった。そういうことがありました。で、やめようということになって、「ひとりになっても聞く」って言ったのに、「お前が頼みに行ったんだから、お前が断りに行け」って先輩に言われてね。

「ひとりになっても聞けるか」って問われて、「聞ける」って言ったけれど、できないんですね。でも集中的に聞法しないとダメですね。親鸞も100日間参篭(さんろう)して、その後に法然のところに行ったら、また100日間毎日聞法(もんぽう)したっていうんですよ。やっぱり、なんでも3ヵ月、100日間。やろうと思ったらね。そういう集中力がないとね。志願というか、志しというか、願いというか、そういうものが非常に曖昧模糊としている。そういう想いがあるなら、行動に移してみる。でもそういうことが私自身できませんでした。だから、ひとりになったらダメだからと、たくさんいるところにくっついて行くんじゃ、聞法になってないんですよね。

聞法の姿勢、集中力だけの問題だったのでしょうか。
当時、求道心というようなものの自覚はどうだったのでしょう。
そのときは必死になっていたような気がしますけれども、しかし、講師依存になってしまった。善知識依存になっちゃうんですよ。ファンになっちゃうんです。ファンじゃないんだよね、本当は。講師依存では質問がないですね。質問がないということは、自分で聞いてないということです。「どうしてこんなに鈍感なのか」ということは、実は、教えに背いている自分自身にあるんです。仏法に背いているという危機感が乏しいんですね。
聞法していても、依存してしまう人と、独立していく人の分かれ目って何なのでしょう。
依存していくというのは、不安だから?
不安が不徹底なのでしょう。依存して不安をごまかそうとする。不安と独立に誰もがどちらかに分かれるというわけではない。不安が徹底すれば求道せざるをえない。求道心の問題ですね。講師を追っかけることも大事ですけど、いつまでたっても追っかけ続けているんじゃね。3ヵ月たったら独立しなくちゃ、本当は。追っかけ通したら、そうなるはずなんだよね。分かりやすい法話をされる先生だけを追っかけていると、いつまでたっても依存から抜け出せるわけがないです。結局、自分の会を持ってないんだね。この会を欠席したら、人生の1日を損したっていうくらい、そういう会を持っているか。自分の会を持っているかそして、ただ聴くだけでなく、聞いたことをどう言葉で表現できるかが大事だと思います。
自分の会を始めたいと思っている人に、何かアドバイスをお願いします。
宗教書でなくてもいいと思いますが、「この人は凄いことを言うなぁ」って感銘・感動を受けた本がないわけはないと思うんですよ。先ず、自分が感動した本を、老若男女問わず何人かに呼びかけて一緒に輪読やっていけばいいんです。一生懸命やっていれば必ずね、応じる人が現れるんですよ、不思議なことに。
ひとりじゃダメですね。二人でもだめなんで、最低三人いれば輪読会ができますよ。それは、ひとりひとりにとって自分の会です。そういう会がね、あちこち生まれつつありますよ、東京は。私は地方のことは知らないけれど。そういうところで育った門徒は違いますね。自立心がありますよ。そういう良い傾向もあるんだから、坊主の方は、解答を与えようとするけれど、解答なんてなくていいんです。輪読会で問いがみつかればいいのでしょう。分からないことが分かればいいんです。そうすれば、著者の先生の話を聞こうとか、行動に表れてくるんです。
他にも先生にとっての善き人をお聞かせください。
大庭米次郎というドイツ語の先生です。晩年の曽我量深先生の「信巻聴記(しんのまきちょうき)」の講義を、1日も休まないで、1番前で聞いた人です。文化とか文明に生きている人っているんだなぁってことをね、人間とは何かを、その先生に初めて教えられました。
二階堂先生は、お通夜の開式の30分前にまず遺族の方々の前で法話をなさるという取り組みをされていますが、反応など、どうでしょうか。
ご遺族の方々と非常に感応しあえる場合もあるし、逆に通じあえない場合もありますが、全体的には、一生懸命こちらを見て、話を聞いてくれていますね。「自分のこの悲しみをどうしたらいいんだ」ということに、どのように応えてくれるのかということに真剣なのでしょう。法事でも、読経後の法話を、若い人が聞かないかって言ったら、そうじゃないでしょ。
若い人の方が一生懸命聞いていますよ。施主は、あとの接待・会食のこととか気になってダメです(笑)。
また逆に、黙っていても通じる場合もあると思います。本の中に書きましたが、教条・教学的な話も確かに大事ではあるけれど、葬儀の時に「南無阿弥陀仏」の意味をわかるように話さなければならないとか、「塩をまいてはいけない」話とか、でも遺族はそういうことを聞きたいのかどうか、遺族の悲しみに沿っているのかということでしょう。
葬儀から宗教性を取ったら、何も残らないと断言される二階堂先生。
最近「お別れの会」が増えてきたことについては。
葬儀をやりたくないということではないと思います。ただ、葬儀が社交の場となっていないか。死んだ人をすっぽかしていないか。もう少し、故人と自分との関係を再確認する場であってほしいですね。亡くなってあらためて、故人との関係が思われることってあるわけですから。
このつづきは『南無阿弥陀仏の葬儀』(二階堂行邦著 発行/東本願寺出版部 )で!

詳しくは「読みま専科」(オンラインショップ)

南無阿弥陀仏の葬儀

取材・記事/ホームページ班トピックスチーム(2010年4月)