仏壇手を合わすこと、それは自分自身を見つめること 今まで手を合わせることなどなかった"わたし"が手を合わせている。これはとっても不思議なことです。たとえ手をあわせる意味が分からずとも、その姿は前に歩まれた方々からの「お念仏を申してください」という促しに、図らずも応えていることになるのです。 そして、"わたし"が手を合わせる姿が、次の世代への呼びかけとなっていくのです。 「今、いのちがあなたを生きている」のですよ、と…。 記事一覧 仏壇とお内仏 記事を読む 一般的はお仏壇と呼んでいますが、浄土真宗ではお内仏と言い習わしてきました。古来、宮中には「内道場」といわれるものがあり、貴族などは「持仏堂」をもっていました。それが一般家庭でもたれるようになった時に家庭内の持仏堂が「お内仏」となりました。 もともとお仏壇は、本尊をお掛けしてお参りをするところから出発します。ご本尊をお掛けする場所が定着し床の間が生まれ、そして仏間ができました。 そして浄土真宗のお内仏(お仏壇)では、外側の箱でなく内に安置するご本尊に重きがおかれます。ですから「お内仏」といわれます。お念仏の教えをいただかれてきた先輩方は、ご本尊(南無阿弥陀仏)の前で、拠り所を確かめ自身の生き方を見直す場とし「お内仏」を大切にしてこられました。お内仏はあくまでもご本尊が中心で、決してご先祖をお祀りする先祖壇ではありません。 ご本尊とは 記事を読む 浄土真宗のご本尊は、「阿弥陀如来」です。ご本尊にはお名号、お木像、ご絵像がありますが、お内仏には慣例として阿弥陀さまの立っているお姿のご絵像がかかっていることが多いようです。 立っているお姿は、私たちをお救いくだるために一歩踏みだそうとされている姿がかたちどられていると言われております。 人は折に触れ、手を合わせます。しかし一般的には、頼み事や願い事をするときに手を合わせることが多いのではないでしょうか。家内安全、無病息災、商売繁盛、学業成就等々、身の回りの環境を少しでもよくししたいという要求は尽きません。しかしその要求を突き詰めていけば、自分さえよければという身勝手な考え方に陥っていきます。 手を合わせてお参りをするということは、いわば自分の身勝手な頼み事を仏さまにお願いするのではなく、仏さまからかけられている願いに私たちの生き方をたずねていくことに他なりません。 仏さまはひとえに「自分中心な生き方をしていませんか」「賜ったいのちの尊さを忘れていませんか」と私たちに呼びかけてくだっさっています。手を合わせ “南無阿弥陀仏”と仏さまの名を口に称えることが、その仏さまの呼びかけに応えていくことつながるのです。逆に“南無阿弥陀仏”という名を忘れている時は、あらゆるいのちと共に生きるという願いから遠く離れた、自分さえよければという身勝手な生き方をしている時なのではないでしょうか。 “本当に尊いこと”を確かめていく、ご本尊を中心とした生活を大切にしてまいりたいものです。 *方便法身の尊形(ほうべんほっしんのそんぎょう) ご本尊の裏には「方便法身尊形」と書かれています。本来それは色も形も阿弥陀如来のおはたらき(法性法身)が形取りをもって私たちの前にましますこと(方便法身)を意味しています。そのことを有相方便といいますが、嘘も方便と混同し、「嘘のご本尊をかけているのだ」などという人がいるそうですが、とんだ見当違いです。 *お脇掛(おわきがけ) 中央にご本尊をお掛けし、その両脇にはお脇掛をお掛けします。向かって右側に「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号、左側に「南無不可思議光如来」の九字名号のお軸をお掛けします。または右側に「親鸞聖人」、左側に「蓮如上人」のご絵像をお掛けすることもあります。 *法名軸・過去帳 浄土真宗では、位牌は用いません。法名軸に亡くなられた方の法名を記し側面にお掛けします。側面にお掛けすることで、亡くなられた方も私たちも共にご本尊に向かう形どりになります。向かって右側面には最近亡くなられた方お一方のご法名を記した法名軸を、左側には合幅の法名軸をおかけします。また折本式の過去帳を用いることもあります。その場合、過去帳は上段や正面には置かず、中段か下段の脇の方に置きます。 お仏壇をもとめる 記事を読む 種類と大きさ お仏壇に木地に漆を塗り金箔を押した金仏壇、黒檀や紫檀を木地にした唐木の仏壇があります。浄土真宗ではお浄土をお荘厳した金仏壇が多く用いられてきましたが、唐木の仏壇でもかまいません。お仏壇の大きさは、お掛けするご本尊の大きさによって決まってきます。住宅のご事情等にあったものをお選びになるのがよいでしょう。 お内仏を置く向きは? お内仏を置く向きを気にされる方がたまにおられますが、位置や向きなど方角上の善し悪しは一切ありません。ご家庭の中で、一番心静かにお参りしやすい場所をお選びになればよいでしょう。またお求めになる際の日の善し悪しも一切気にする必要はありません。 お仏壇は亡くなった人がいなくてももってもいいの? 前にも述べたとおり亡くなられた方を祀る場所ではありません。身近に亡くなられた方がいらっしゃらなくても、お内仏を置かれることをお勧めいたします。特に現代社会においては、日々の生活の中で手を会わせご本尊に向かいあう時間が大切であるように思います。お若い方が独立されたり、新しく家庭をもたれた場合も新しくお内仏を置かれることが望ましいでしょう。 位牌ってなに? 記事を読む 「位牌」の由来は、中国の儒教の教えに基づいています。祖先や両親の生前の位官や姓名を板に記入して、神霊に供えたそうです。 宋の時代、禅僧が日本に持ち込み、亡くなられた方の象徴としてお仏壇に安置することが習慣となりました。 仏教の習慣として定着している「位牌」ですが、実は浄土真宗では用いません。浄土真宗では、「法名軸」や「過去帳」をお勧めします。 お内仏(お仏壇)の前で、何を思い手を合わせますか?亡くなられた方のことを想うという方も多いことでしょう。思いが深ければ深いほど「ありがとう」という気持ちも深くなることでしょう。しかし、亡き人を想いながら「位牌」に手を合わせるということは、大切な人を知らず知らずのうちに貶(おとし)めていることになるのです。 「位牌」は亡くなられた方を偲ぶ対象としてはとても分かりやすいものであり、手を合わせやすいものだと想います。「法名軸」や「過去帳」に改めたところで、それに対して手を合わせていては同じことです。 浄土真宗では「位牌」を用いません。「位牌」を用いることがどういうことなのか、なぜ「位牌」を用いないのか、一緒に考えて見ましょう。 仏事一口メモ 仏壇 メモを読む 夫を亡くし葬儀をすませたという、五十歳位の女性が突然「真宗会館」をたずねて来ました。遺骨は実家の墓地ヘ、四十九日の法要はお墓のあるお寺(遠方)で勤めるということでした。 このご家庭は、東京に比較的近い新興住宅地に住む核家族です。お寺との普段の行き来は全くないようでした。夫の死後、どうも家の中が寂しく殺風景で、不安だったようです。小さな仏壇を求めたが、その後どうしたらいいのか恩い悩んでいたそうです。 そもそも仏壇(浄土真宗ではお内仏(ないぶつ)といいます)とは、一体何でありましょうか。今回からご一緒に考えてみたいと思います。 本来仏教は、生死の苦しみからの解放を説く教えです。親鸞聖人の先生であった法然上人は、「生死(しょうじ)出(い)ずべきみち」をただ一筋におっしやっておられたそうです。生きることの苦しみや死の不安からの解放を一心にお説きくだされたということでしょう。 ところで、浄土真宗のお内仏の始まりをたずねてみますと、ご本尊をお掛けして礼拝勤行(らいはいごんぎょう)するところから出発しました。つまり、花を備え、香を焚き、ロウソクを灯して、仏法聴聞(ちょうもん)したわけです。そうして多くの人が、生まれた意義と生きる喜びに目覚める人生を仏教に学んでいかれたのです。(床の間はご本尊を安置するところから生まれ、仏間ができてきたといわれています。また、現在一般化されている箱型の仏壇は、江戸時代中期以降からもちいられているようです) 蓮如上人は「本尊は掛けやぶれ、聖教(しょうぎょう)はよみやぶれ」と語られました。何度も何度もご本尊をお掛け(当時はその郡度掛けた)し、お聖教(仏様の教えを記す書)を読み、仏様の心をいただいて生きていくことが人間として大切なことだと教えてくださっているのです。 こういう意味からしますと、現在一般化されている箱型の仏壇にしなければならないということは決してありません。団地やアパートなど、狭い部屋で仏壇を置くスペースがない場合は、タンスや本棚の上をきれいにして、三折(みつおり)本尊を置き、その手前に三具足(みつぐそく)(花瓶(かひん)・香炉(こうろ)・燭台(しょくだい))を設ければ、お内仏として成り立つわけです。 お内仏 メモを読む 浄土真宗は、従来から「お仏壇」のことを「お内仏(ないぶつ)」と呼びならわしてきました。これは単に、他宗の仏壇と区別するために、名称を変えてきたということではありません。「お内仏」と表現することで、浄土真宗独特の意味(宗風(しゅうふう))をいただいてきたのです。 お内仏は、ご本尊(ほんぞん)をお掛けして礼拝勤行(らいはいごんぎょう)し、仏法を聴聞(ちょうもん)するところから出発しました。ご本尊をお掛けしたところは、すべて仏法聴聞の場であったわけです。そのようにして、お内仏の前で、生まれた意義と生きる喜びに目覚める人生を学んできたのです。 ところで、仏教の歴史や昨今の宗教事情を振り返ってみますと先祖供養や追善供養あるいは現世利益をことさらに説くものが数多くあります。これには、さまざまな苦しみや身にせまる災いから逃れるための祈願の宗教といえましょう。 ところが浄土真宗は、祈り願うことしかできない私たちの生き方や自らの愚かさ、そして驕り(おご)り高ぶる私の姿が知らされ、念仏を申すことで救われつつある自己に目覚めていく教えです。 熱心な真宗門徒のご家族では、お内仏の前で朝と夕方、「正信偈・念仏・和讃(わさん)」の勤行(おつとめ)と「御文(おふみ)」(蓮如上人のお手紙)の拝読を日課としています。つまり、合掌礼拝と仏法聴聞をかかさないわけです。 このような生活の中で、自らのご本尊(本当に尊いこと)を確かめ、そして自らの生きる方向を確認してきたのです。お内仏が生活の中心、いつでも帰ることのできる心の拠り所になっているのです。 ここまで申し上げれば、お内仏はご先祖を安置する壇(先祖壇)でもなければお願い事をする壇(依頼壇)でもないことが知らされましょう。ましてやインテリアでないことも。 お内仏は、お一人お一人の内なる仏さま・ご本尊に気づけとの促しです。そう気づいてはじめて、ご本尊をお掛けするお内仏が生きてはたらいてくるのです。 仏壇を求める メモを読む 前回までにお話しましたように、「お内仏」はにご本尊をお掛けした形でも、タンスの上などに三折本尊(みつおりほんぞん)を置く形でもよいわけですが、今回からは箱型の仏壇の場合を前提にお話を進めることにします。 仏壇には大別して金(きん)仏壇と唐木(からき)仏壇があります。金仏壇は、木地に漆をぬり金箔を押したものです。唐木仏壇は黒檀(こくたん)や紫檀(したん)の木地をそのまま生かしたものです。両者のうち、真宗門徒は従来から金仏壇を用いてきました。それは何年たっても、色・質とも変わらない金の特質によつて、仏さまの永遠なる教えを表そうとしたからでありましょう。 さて仏具店にまいりますと、金仏壇・唐木仏壇の違いに併せ、大小さまざまな仏壇が陳列されています。仏壇をお求めになるときは、事前によく住職(寺)にご相談いただき、間違いのないよう次の点に留意されるとよいでしょう。 宗派の名称をはっきり告げる。 置かれる場所の高さ・幅・奥行きなどを調べておく。 ですから、真宗(東本願寺)門徒の場合、仏壇を求めるとき「真宗大谷派(お東)です」と、はっきり名のってください。浄土真宗の仏壇でも、たとえは浄土真宗本願寺派(西本願寺)とは若干の作りの違いがあるからです。また、仏壇とともに花瓶(かひん)や香炉(こうろ)等の仏具もそろえます。仏具にも宗派の違いがありますので、よく確認する必要があります。 ただし、ご本尊は本山(京都・東本願寺)からお受けします。ご本尊は、お内仏の中心であり、仏さまの教えによって自らの生活の方向を確かめる生きる依り所となるものです。「仏壇を買っていただければ、本尊はサービスします」という店もあるようですが、サービス品で代用するようなものではありません。 また、お内仏の置かれる場所や方角等を気になさる方があります。あくまでも浄土真宗のお内仏は、仏法を聴聞(ちょうもん)する場にふさわしい部屋に置かれるのが望ましいといえます。方角の善し悪しや日の善し悪しにこだわる必要は全くありません。 ご本尊とは(1) メモを読む これまでにもお話ししてきましたが、浄土真宗のご本尊(ほんぞん)は阿弥陀如来(あみだにょらい)です。阿弥陀如来のお姿には、木に彫った木像(もくぞう)の本尊、絵に描いた絵像(えぞう)の本尊があります。 木像本尊は一般的に、寺院の本堂に安置されていますので、お参りの際に手を合わされた方も多いと思います。一方の絵像本尊の場合は、主としてご家庭のお内仏(ないぶつ)におかけいただいてます。 木像・絵像両本尊の他にも、言葉に表した名号(みょうごう)本尊があります。その元となるのが「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」(漢字六文字であることから六字(ろくじ)名号と呼ぶ)です。 このように、浄土真宗のご本尊を形に表した場合、木像・絵像・名号の三種類に分けることができます。 では、ご本尊にはどのような意味があるのでしょうか。 本尊の語源を尋ねてみますと、私たちを守ってくれるものという意味があったようです。そのことを現代に置き換えて考えてみますと、寺社のお守りやお札がそれに当たりましょう。例えば、交通安全のお守りを車中に下げることで、交通事故から守ってくれるということになるのでしょう。 あるいは、阿弥陀如来に合掌して、「どうぞ仏さま、私をお守りください」と祈り願ったとすれば、阿弥陀如来が守護神的な意味になってしまいます。(参考・・・平野修著『南無阿弥陀佛のいわれ』) しかしながら、浄土真宗のご本尊は、そういう私を守ってくれるものという意味ではありません。 仏教は生きることの苦しみや死の不安からの解放を説く教えであることは、すでに申し上げました。このような仏教の原点に立って、私にとってのご本尊といった場合、それは外から私を守ってくれるものではなく、私の内に発見するものです。 つまり、ご本尊とは人生において本当に尊いことであり、真の拠(よ)り所(どころ)であります。このことさえはっきりすれば、他の仏さまや神さまにお願いする必要のない生活を開いてくるものなのです。 次回から詳しくたずねてみたいと思います。 ご本尊とは(2) メモを読む 蓮如上人(れんにょしょうにん)は、「他流(たりゅう)には、『名号(みょうごう)よりは絵像(えぞう)、絵像よりは木像(もくぞう)」というなり。当流(とうりゅう)には、「木像よりはえぞう、絵像よりは名号」と、いうなり』と言われています。 この言葉は、浄土真宗以外の流れをくむ仏教では「名号のご本尊よりは絵像のご本尊、絵像のご本尊よりは木像のご本尊がよい」というが、浄土真宗では「木像のご本尊よりは絵像のご本尊よりは名号のご本尊がよい」という意味になります。 木像・絵像・名号、それぞれのご本尊にはそれぞれ大切な意味があります。蓮如上人は、こうした比較の表現をとることによって、真宗の本尊の意味を明らかにしようとされたのでありましょう。 先覚・安田理深(やすだりじん)師は、先の蓮如上人の言葉に続けて「壁にかけてある名号より口から出る名号、これが本当の生きた本尊」と語っています。 つまり、本当に尊い生きた本尊とは、彫刻の阿弥陀如来(木像)や絵画の阿弥陀如来(絵像)、書の名号そのものではなく、人の口を通して“南無阿弥陀仏”と噴出するお念仏が尊いのであると、教えてくださっているのです。 ですから、「木像より絵像、絵像より名号」、さらには「壁にかけてある名号より口から出る名号」という次第は、それぞれの価値やご利益の順番を表しているのではないのでしょう。また、木像本尊や絵像本尊では意味がないというのでもなく、今、口に称(とな)える名号=南無阿弥陀仏こそが、本当に尊いご本尊なのだということを示しているのです。 そういう意味で、木像→絵像→名号の順番は、木像・絵像という形あるご本尊から人間生活のまっただ中に生きてはたらく名号本尊へという次第を教えてくださっていると言えましょう。 さて、お内仏(ないぶつ)(仏壇)には、絵像のご本尊をおかけしますが、口に称える名号が本当のご本尊というならば、ご本尊をおかけする必要はないのでないかと思われるかもしれません。実はそうではないのです。次回に考えてみたいと思います。 ご本尊とは(3) メモを読む ご本尊(ほんぞん)について整理してみますと、次の二面性が知らされます。 (1)色や形がなく目にすることができないご本尊。口に称える名号(みょうごう)=南無阿弥陀仏のこと。 (2)色や形に表した目にすることのできるご本尊。木像(もくぞう)・絵像(えぞう)の阿弥陀如来や文字で表した名号のこと。 前号でお話ししましたが、生きた本当に尊いご本尊とは(1)を指しています。では、(2)をどう理解したらよいのでしょうか。 お内仏(ないぶつ)(お仏壇)にお掛けする絵像ご本尊の裏側を見ていただきますと、「方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)」と書かれています。 この方便とは、・嘘も方便・などといわれるような便宜(べんぎ)的な手だてという意味ではありません。 中国の曇鸞大師(どんらんたいし)は、「正直を方(ほう)という。外己(げこ)を便(べん)という」と語っています。この言葉は、偏(かたよ)りも歪(ゆが)みもなく(正直=方)、自分の都合を全く考えずひたすら人々のためだけを思う心(外己=便)をいうようです。つまり、「方便法身尊形」は、偏りも歪みもなく、一心に一切の人々を救おうという仏さまの真実のはたらきを表した尊いお姿という意味になります。 口に称える名号は、色も形もなく肉眼には見えません。その見えない仏さまのはたらきに導き至らしめるために木像や絵像という形をもって表現されているわけです。 以前にも申しましたように、浄土真宗のお内仏は、ご先祖を安置する壇(先祖壇)でも、お願い事をする壇(依頼壇)でもありません。日常生活の中で、いつでも帰ることのできる心の依(よ)り所(どころ)です。形あるご本尊に手を合わすことをとおして、真のご本尊に出会い生きる喜びをいただいていくのでありましょう。 また、ご本尊が目に見えることによって、偶像を崇拝することのように思われるかもしれません。しかし、浄土真宗は偶像崇拝ではありません。お内仏にお掛けするご本尊は、私たちに真に依るべき本当に尊いこと(上記(1))を教え示そうと表されたお姿なのです。 ご本尊は、木像・絵像・名号にわけられますが、お内仏(仏壇)には、一般的に絵像のご本尊をお掛けします。 本山(東本願寺)からお受けするご本尊の裏には、「方便法身尊形」と裏書されています。 ご本尊とは(4) メモを読む 山口県萩市に河村とし子さんという方がおられます。河村さんは兵庫県明石のご出身で、熱心なクリスチャンの家庭に生まれ育ちました。それが縁あって、浄土真宗の熱心な家庭に嫁がれました。ご両親(義父母)は、大きなお内仏(ないぶつ)のまえで、朝晩、ていねいにお勤(つと)めをしていたそうです。 キリスト教では形あるものを拝むような偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)を禁じます。偶像を拝むような宗教は程度が低いと教えられていた河村さんは、「金ピカの大きな偶像を拝んで何やらわけのわからないお唱えごとをしている気の毒な人」とご両親をみていたようです。 確かに、お内仏のご本尊に手を合わすわけですから、偶像を崇拝しているように思われても仕方ない面もありましょう。しかし、後になって河村さんは、これが間違いであることに気づきます。 河村家では「人間として一番大切なことは、お寺へ参って仏法を聴聞(ちょうもん)すること、仕事というものはお聴聞をした余(あま)りがけで仕事をすればいい」が家訓(かくん)だったそうです。 あることがきっかけで仏法を聴聞するようになります。あるとき「今では自分で生きて、自分で求めて、自分で苦労していると思っていた私が、自分で生きているんじゃなかった、人間を越えた大きな大きなおかげさまで生かされている私だった」と気づかれます。そう気づいた瞬間、念仏申していたと言われます。 念仏申すとは、これまでお話してきました口に称(とな)える名号=南無阿弥陀仏、ご本尊のことです。本当に尊いことにあうことのできた瞬間だったのでしょう。日課にしていた朝晩のお内仏でのお勤めと、欠かさなかった仏法聴聞をとおして、仏さまにあう喜びと生きる喜びを実感していかれます。決して、目の前の仏さまを偶像として拝んでいたのではありませんでした。 木像本尊も絵像本尊も名号本尊もみな、念仏を申すことを私たちに教え示しているのです。このことを念頭に置きながら、次回はご本尊の両脇に掛ける「お脇掛(わきが)け」についてお話しします。 お脇掛(1) メモを読む 今回からお話しする「お脇掛(わきがけ)」とは、ご本尊(ほんぞん)・阿弥陀如来(あみだにょらい)(お内仏(ないぶつ)の正面中央)の両脇にお掛けする掛け軸のことをいいます。 お脇掛には次の二種類があります。 名号を記したものと、 親鸞聖人・蓮如上人のお姿を描いたものです。 2.は後に譲るとして、まず1.の名号を記したものからお話ししたいと思います。 名号には、「南無阿弥陀仏」の六字名号の他に、十字名号・九字名号があります。十字名号とは「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」(漢字十字からなるため十字名号という)、九字名号とは「南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」(漢字九字からなるため九字名号という)のことです。 それぞれの名号を対比してみますと、次のような関係があります。 六字名号=南無阿弥陀仏=お釈迦さまの教え 十字名号=帰命尽十方無碍光如来=天親菩薩(てんじんぼさつ)の教え 九字名号=南無不可思議光如来=曇鸞大師(どんらんだいし)の教え 南無阿弥陀仏は古代インドの言葉(サンスクリット語)を音写したもので、南無を帰依(きえ)、阿弥陀仏を無量寿(むりょうじゅ)・無量光(むりょうこう)と訳されています。量り知れない寿(いのち)と光に帰依する、寿と光を我が生命(いのち)とするという意味になりましょう。 帰命尽十方無碍光如来は、天親菩薩が南無阿弥陀仏に帰依したこころを語った言葉ですし、一方の南無不可思議光如来は、曇鸞大師が南無阿弥陀仏に帰依したこころを語った言葉です。天親菩薩も曇鸞大師もともに、南無阿弥陀仏の教えによってご本尊の意味を明確にされた言葉であったのです。 私たちは、お内仏にお掛けする九字・十字名号を「お脇掛」と称していますが、その意味をたずねてみますと、南無阿弥陀仏のこころを語った「ご本尊」であるということが知らされます。九字・十字の名号は、南無阿弥陀仏のこころを別の視点から私たちに示していることになるのです。 次回にも、九字・十字名号の意味について、考えてみたいと思います。 お脇掛(2) メモを読む ご本尊とお脇掛 お内仏(ないぶつ)の正面中央にご本尊(阿弥陀如来)をお掛けします。お脇掛は、向って右側に十字名号(帰命尽十方無碍光如来)を、左側に九字名号(南無不可思議光如来)をお掛けします。 ご本尊(ほんぞん)の両脇にお掛けする十字名号(みょうごう)(帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい))と九字名号(南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい))のお脇掛(わきがけ)は、単なる飾りではありません。 お釈迦(しゃか)さまの教えであります南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)は、人間の知恵では量(はか)り知ることのできない寿(いのち)と光(阿弥陀仏)に帰依(きえ)(南無)する、寿と光を我が生命(いのち)とするという意味があります(前回参照)。 そのこころを語った帰命尽十方無碍光如来は、十方に尽きることのない碍(さわ)りなき光の世界を生きる姿の表現です。南無不可思議光如来も同じように、人間の思慮分別(しりょふんべつ)を超えた光の世界に生きる姿を表現しています。九字名号・十字名号とも、阿弥陀仏を「光如来」と表現されたところに特徴があるように思います。 仏教は、迷いや不安、恐れからの解放を説きます。しかし、私たちの力では、自らを迷いや苦しみから解き放つことはできません。そういう迷いや苦しみ(煩悩(ぼんのう))で方向性を失った世界は闇です。 闇夜を不安なく真っすぐ歩くことができるのは、月の光や電灯の光があるからです。同じように、人間は光の仏さま(光如来)に出あえて初めて迷いや不安をのりこえ真っすぐ歩むことができるのです。闇を破るはたらき、それが光如来です。十字名号は天親菩薩(てんじんぼさつ)の、九字名号は曇鸞大師(どんらんだいし)の光如来に出あえた表現なのです。 すでにお話ししてきましたように、お内仏(ないぶつ)(仏壇)の中心は阿弥陀如来です。阿弥陀如来は、人生における真の本尊・南無阿弥陀仏を教え示そうとされた尊いお姿です。そして、その両脇の十字と九字の名号は、天親菩薩・曇鸞大師の南無阿弥陀仏に出あえた喜びの言葉といえます。 つまり、九字・十字の名号は、私たちの苦悩の闇を破る南無阿弥陀仏の世界(浄土)が真実であることを表しているのです。そして、念仏申すことを私たちに勧(すす)めているのです。ですから、尊いのですし、手が合うのでしょう。 こう理解してみますと、お内仏全体が、人生の闇を破る南無阿弥陀仏のはたらきを表していることがいよいよ知らされてきます。 お脇掛(3) メモを読む ご本尊とお脇掛け(御影の場合) 御影のお脇掛けの場合は、向かって右側に親鸞聖人の御影を、左側に蓮如上人の御影をお掛けします。 お脇掛けには、前の二回でお話ししました十字名号(帰命尽十方無碍光如来)と九字名号(南無不可思議光如来)のほかに、親鸞聖人と蓮如上人のお姿を描いたもの(御影(ごえい)といいます)があります。 御影の場合は、ご本尊に向かって右側に親鸞聖人、左側に蓮如上人をお掛けします。当派寺院の本堂には、向かって右側に親鸞聖人、左側には多くの場合、蓮如上人の御影が掛けられています。つまり、「お内仏」(仏壇)は寺院と同じ形式になるわけです。 親鸞聖人(1173─1262)は、浄土真宗の宗祖(しゅうそ)に当たる方で、九十年の生涯をかけて念仏(南無阿弥陀仏)の教えを明らかにしてくださいました。後世の人は浄土真宗を開いてくださったということで「ご開山(かいさん)」とも呼んでいます。 蓮如上人(1415─1499)は、本願寺の八代目の方で、親鸞聖人が明らかにされました念仏(南無阿弥陀仏)の教えを八十五年の生涯をかけて多くの民衆に伝えてくださいました。 親鸞聖人と、蓮如上人、生きた時代はそれぞれ異なりますが、お二人に共通することは、生きた真の本尊(口に称(とな)える=南無阿弥陀仏)を深く領解され、多くの人々に伝えられたということでしょう。しかもその教えは、現代にまで至り届いているのでした。それが「お内仏」という形になって表されているのです。 ところで、「お内仏」の正面にお掛けする阿弥陀如来とその両脇の親鸞聖人・蓮如上人との関係は、南無阿弥陀仏を教え示す阿弥陀如来と、その教えを身をもって証(あか)しされた方ということになります。 ですから、親鸞聖人・蓮如上人の御影に手を合わすのは、単なる人物崇拝ではありません。お二方が遺(のこ)してくださり、私にまで伝えられた本当の生きたご本尊の南無阿弥陀仏に手を合わすことなのです。「お内仏」正面の三幅は、生きたご本尊の姿(救済の真実)を私たちに示しているのです。 そして、南無阿弥陀仏のこころを教え示してくださった親鸞聖人・蓮如上人に、自らの人生を学んでほしいという願いが込められていることも忘れてはなりません。 法名軸(1) メモを読む 浄土真宗では、位牌は用いません。法名軸をお内仏の側面にお掛けします。 法名軸とは、亡くなられた方の法名を記した掛け軸のことをいいます。亡くなられた方がある場合は、この法名軸をお内仏(ないぶつ)(仏壇)の側面にお掛けします。 つまり、浄土真宗では、お内仏に位牌(いはい)を置くことをしないわけです。その理由をたずねてみますと、 中国の儒教から発した位牌は文字どおり位(くらい)の牌(ふだ)で、故人の生前の官位と姓名を書きつけた木札であったといわれる。「位牌を汚(けが)す」という言葉もあり、世俗的な名誉や権威と表裏した意味合いをもつこと。 古来、位牌には死者の霊がとどまる場所と考えられてきたこと。 位牌をお内仏に置くことによって、礼拝の対象がご本尊(ほんぞん)ではなく、先祖の位牌になってしまう恐れがあること。 等があげられます。いずれも亡き人を諸仏(しょぶつ)といただく浄土真宗には、なじまないことが知らされます。 これまでにも申してきましたように、浄土真宗のお内仏の中心は、ご本尊の阿弥陀如来です。ご本尊に合掌礼拝(らいはい)し、いつでもどこでも称(とな)えることの生きた真(まこと)の本尊=南無阿弥陀仏をいただくことが大事なことなのです。 位牌をお内仏に置くことは、この要の部分を見失わせ、いつしかお内仏が先祖供養の壇にもなりかねません。また、亡くなられた方が多くなってきますと、位牌でご本尊が隠れてしまい、それこそ位牌壇になってしまいましょう。 私たちはお内仏を通して、阿弥陀如来のいのちの世界に目覚め、亡き人も阿弥陀如来のいのちの世界に還(かえ)られたといただいていくのです。それが、ご本尊・阿弥陀如来を中心とした生活なのです。 ご本尊と、前回までお話ししてきましたその両脇の十字と九字の名号(または親鸞聖人と蓮如上人の御影(ごえい))、そして、側面にお掛けする法名軸、すべてが阿弥陀如来の世界である浄土を示しているのです。 亡き人のご命日(めいにち)には、あらためて「釈○○」と書かれた法名軸をあおぎ見、亡き人を偲(しの)ぶとともに、死をもって教えてくださる生の大切さを見つめ直す命(いのち)の日にしたいものです。 法名軸(2) メモを読む 今回も、お内仏(ないぶつ)(仏壇) と法名軸の関係について考えてみたいと思います。 「亡くなった人もいないのに、仏壇なんか買うものではない」という話をよく耳にします。こうおっしゃるのは、仏壇は亡き人(霊)が入るところ、死者をまつるところという考えによるものと思われます。それは「仏壇を前(さき)にそろえては死を待つようでいやだ(死への恐れ)」ということなのでしょう。 この話を聞いて、まず思いますことは、お内仏は、売買する品物ではないということです。たしかに、仏壇や仏具そのものは、形あるものですから、仏具店から買わなければなりません。しかし「ご本尊(阿弥陀如来)」は、本当に尊いこと、人生の信の依(よ)り所(どころ)を教え示してくださる礼拝(らいはい)の対象ですから、売買するものというわけにはいきません。 また、お内仏は人が亡くなってから求めるという決まりもありません。むしろ、生前に求めておくべきものと考えます。それは、お内仏を亡くなった人(霊)の住みか、亡くなった人の入るところとは考えないからです。 浄土真宗では、亡くなられた方を「浄土に還られた」と表現します。阿弥陀如来のいのちの世界(浄土)から生まれ、いのちの世界に還られたということです。 そのことを形をもって表しているのが、実はお内仏なのです。お内仏は、浄土を形をもって表現したものです。法名は、仏さまの弟子になられたことを表す名前です。 ですから、法名軸をお内仏にお掛けすることは、亡き人を浄土に還られた諸仏といただくことなのです。そして、阿弥陀如来の「ご本尊」のもとで南無阿弥陀仏のこころを私たちに教え示されているのです。 浄土真宗のお内仏は、「ご本尊」の阿弥陀如来が、そして亡き人たち(諸仏)が浄土の教えを私たちに教えているのでした。 複数にわたるご先祖の法名は、合幅(がっぷく)の法名軸(一幅を罫線でいくつかに区分したもの、数人の法名が記載可)か、略式ですが、折り本形式の過去帳(かこちょう)に整理してもよいでしょう。過去帳は、台に載せてお内仏の中段か下段に置くようにします。 三具足 花・香・ローソク(1) メモを読む 今回からは、お内仏(ないぶつ)に必要な仏具(ぶつぐ)類(花瓶(かひん)や香炉(こうろ)など)についてお話します。仏具は、宗派によって形が異なりますし、大きさもありますので十分注意してください。ここでは、どんなに小さいお内仏でも、必ず揃(そろ)えなければならない仏具を中心に話を進めたいと思います。 お内仏(浄土)の荘厳(しょうごん)(お飾(かざ)り)になくてはならない仏具を三点あげますと、お花を供(そな)える花瓶、香を燃やす香炉、ローソクを灯(とも)す燭台(しょくだい)になります。それらを総称して三具足(みつぐそく)といいます。 三具足は、お内仏の中央正面中段の前卓(まえじょく)に、向かって左から花瓶(真鍮(しんちゅう)製)、土香炉(どごうろ)(陶器の香炉)、鶴亀の燭台(真鍮製)の順に置きます。これらの仏具を使って、お内仏をお飾りするわけです。 お内仏の中の前卓(机)の上に、向かって左から花瓶・土香炉・鶴亀の燭台の順に置きます。お内仏が小さく、前卓が置けない場合は、前卓を省略してもかまいません。 まず、花瓶に関してお話します。花瓶には必ず生花(せいか)をさします。蓮の花をかたどった金色の造花もあるようですが、浄土真宗では決して用いません。四季折々の生きた木花や草花をお供えします。そして、お供えしたお花(花瓶)は、ご本尊を背にし手前が正面になるように飾ります。 お内仏にお花をお供えするのは、亡き人の死後の幸せとか成仏(じょうぶつ)を願うためではありません。人生の本当に尊いことを教える仏さまを讃(たた)え、仏前(ぶつぜん)を荘厳(お飾り)するためです。 そして、お飾りした花は浄土のはたらきを私たちに示していることになります。生き生きと生きたいのちの姿を、花という形をとおして私たちに示しているのです。花は私たち人間の手で供えるのですが、供えた花は私たちの方に向かって、いのちの大切さを問いかけているのです。 ですから、生きた花を私たちの方に向けてお供えするのです。また、ドライフラワーなどの枯れ花もあげませんので、枯れたら立て替えるようにしましょう。夏場は枯れるのも早いものです。ご家庭で丹精込めて育てたお花をあげるのもよいことです。 お内仏は、合掌礼拝(らいはい)しお勤(つと)めする場所です。悪臭のある花や、トゲのある花は避けます。お供えする花の量に特に決まりはありませんが、ご本尊が隠れない程度にします。 三具足 花・香・ローソク(2) メモを読む 前回は、お内仏に必要な仏具「三具足(みつぐそく)」(花瓶(かひん)・土香炉(どこうろ)・燭台(しょくだい))のうち、花をお供えする花瓶に関してお話しました。今回は、花瓶と燭台の間に置く土香炉のお話です。 土香炉は、陶器の香炉のことで、線香を燃やすときに使います。線香は、香炉の大きさに応じて適当に折り、火をつけてから横にたおして灰の上に置きます。火の付いた方が左側になります。 よく、線香を香炉に立てる方もありますが、浄土真宗では立てることはいたしません。その理由について考えてみたいと思います。 毎日のお勤めの前に、線香を燃じます。線香はどんなときにも立てません。香炉は三本足の一本が正面になるように置きます。 第1は、横に寝かせるのが本来的な形だということです。線香を燃やすことを燃香(ねんこう)といいますが、燃香はもともと抹香(まっこう)(樒(しきみ)やあせびの葉を干して細かくしたもの)を香炉に盛り火をつけて燃ねんずることで、その代用で線香が使われてきました。つまり、立てるものではなかったということです。 第2は、迷信からの解放です。特に通夜・葬儀の際、線香を一本立てて、その煙が真っすぐ上がるのがいいという考え方があります。真っすぐ上がれば迷わず成仏する(?)ということなのでしょうか。しかし、亡くなっていかれた方と線香の煙との因果関係は全くありません。迷わされないように。 三番目は、危険性の問題です。参詣者が多く何十本もの線香を香炉に差しますと、線香が燃えつき灰の中が熱くなります。すると、後から差した線香が下から燃えだし、線香が倒れて火災の原因にもなりかねません。 さて、線香は、朝晩のお勤めの前に燃じます。お勤めをなされない場合でも、お線香を燃じてから合掌礼拝(らいはい)されるようにしましょう。 香を焚(た)くことは、お釈迦さま当時から行われていたといわれています。現在は、お内仏(仏前)を荘厳(しょうごん)するときには必ず香を使います。薫香(くんこう)(かおり)が平等に行き渡ることをもって、仏さまの教えが平等で普遍的であることを表現しています。薫香をもって仏さまの世界(浄土)を表しているのです。 毎日のお勤めと香のかおりをとおして、仏さまのこころを学んでいただきたいと思います。 三具足 花・香・ローソク(3) メモを読む お内仏に必要な仏具「三具足(みつぐそく)」のうち、今回は向かって右側にお飾りする燭台(しょくだい)についてお話します。燭台とはローソクを灯(とも)すための仏具のことで、真宗大谷派では鶴亀(つるかめ)の燭台を用います。花瓶(かひん)や土香炉(どごうろ)と同様、お内仏(仏前)を荘厳する仏具の一つです。 鶴亀の燭台 鶴も亀も左向きになる。鶴がくわえているものを蓮軸といい、蓮の実(正面)・葉(右側)・つぼみ(左側)をかたどっている。 親鸞聖人は浄土真宗を「南無不可議光(なむふかしぎこう)」(正信偈(しょうしんげ))と、「光」をもって表現されました。南無阿弥陀仏の心を光をもって教えてくださったわけです。月の光は闇夜を照らし、進むべき方向を示してくれます。同様に、生きあぐね迷い続ける私たちに生きる方向を示してくださるのが仏さまの智慧(ちえ)の光です。 そういう意味で、仏前を荘厳するローソクの光は、ご本尊(阿弥陀如来)を明るく照らすだけではなく、仏さまの智慧のはたらきを表現しているのです。 さて、鶴亀の燭台を用いる理由には諸説があります。その一説は鶴と亀の足に譬(たと)え、「鶴の足は長く、亀の足は短い。鶴の足も亀の足も、それぞれ自らの特性であるから、長い足を切る必要もなく、短い足にたす必要もない。ともにその特徴個性こそ尊重されるべきものだ」というものです。 つまり、浄土真宗の教えは、「老少善悪(ろうしょうぜんまく)の人をえらばれず、ただ信心を要ようとす」(歎異抄)とありますように、人それぞれ長短善悪の違いがあるけれども、浄土真宗はえらぶことがありません。人みな念仏を申し、仏さまの智慧の光に出あうとき分け隔(へだ)てなく救いが成就するのです。 鶴亀はこういう阿弥陀如来の心を表現しているのです。お内仏に向かうたびに、この教えを思い起こし味わってほしいという願いが込められているのです。私たち人間は、人を差別の眼で見、善(よ)し悪(あ)しの判断で切り捨てていきます。こういう邪(よこしま)で驕(おご)り高ぶる私たちの心を阿弥陀如来の智慧の光はいつも照らし出しているのです。鶴亀の燭台には、祥月(しょうつき)命日や年忌法要、彼岸やお盆などのお勤めのときに点じます。普段は木製の木蝋(もくろう)をさしておきます。線香を燃(ねん)じるためのロウソクは、専用の燭台を手前に用意しておくと便利です。 お仏供(ぶく) メモを読む お内仏(仏壇)の大小にかかわらず、必ず揃(そろ)えていただきたい仏具には、前回までお話してきました三具足(みつぐそく)(花瓶(かひん)・香炉(こうろ)・燭台(しょくだい))のほかに、仏器(ぶっき)があります。仏器とは、米飯を仏前にお備えする際に使う仏具(器)をいいます。そして、仏前にお備えする米飯のことを「お仏供(ぶく)」といいます。あるいは、お仏飯(ぶっぱん)、お鉢(はつ)、仏餉(ぶっしょう)ともいわれます。 お仏供は、円筒形の筒(B)に米飯をつめ、Aでお仏器につき出して盛ります。この道具を盛槽といいます。 以前から、お仏供をお備えする理由には報徳の義があるといわれています。これはどういう意味でしょうか。 申すまでもなく、私たち人間は、時と共に老い衰え、病にもなり、ついには死を迎えなければなりません。こういう私たちに阿弥陀如来は、永遠にして不滅のいのち「無量寿(むりょうじゅ)」を念仏申す人に与えてくださいました。 しかしこの無量寿とは、いつまでも若くて、老いも衰えもしない長生不死の身をたまわったということではありません。現実の、老い、病み、死から生じる迷い・苦しむ身に安らかさを与えてくださるのです。それは、老、病、死の現実を引き受けることのできる身になったということでしょう。 米飯は、私たち人間の生命を保持し生かすための食べ物(主食)です。この大切な食べ物を自分だけのもの(我執・我欲)にせず、無量寿といういのちを与えてくださる阿弥陀如来にお備えするという、報徳の心がお仏供を生んだものと思われます。そしてまた、お備えしたお仏供をいただくことをとおして、無量寿の心をいただいてきたのでありましょう。 お仏供は、毎朝炊き立てのご飯を一番最初に盛槽(もっそう)で形を作り、仏器に盛ってお備えします。正式には、朝のお勤めの後にお備えし、正午にお下げします。お備えする場所は、お内仏の中央上段(ご本尊の前)になります。 近年、核家族や一人住まいの方が多くなり、また嗜好(しこう)の多様化も加わり、朝食をパンにするとか、夜にご飯を炊くというご家庭が増えてきました。これまでのお仏供の習慣が合わなくなっています。まずは、お仏供の意味を熟知することから始めていただきたいと思います。 お内仏の仏具類 メモを読む 前号までの三具足(みつぐそく)【花瓶(かひん)・香炉(こうろ)・燭台(しょくだい)】や仏器は、お内仏の大小にかかわらず、必ず揃えていただきたい仏具になります。その他に、特に大きなお内仏の場合に使われる仏具があります。その主なものをご紹介しましょう。 (1)上卓(うわじょく):ご本尊のすぐ前に置く机です。 (2)火舎香炉(かしゃこうろ):焼香を行うための香炉で、(1)の上卓の中央に置きます。 (3)華瓶(けびょう):浄水を備える仏具です。華瓶には樒しきみを挿しておきます。(1)の上卓の手前左右に一対置きます。 (4)前卓(まえじょく):三具足(花瓶・香炉・燭台)を置く机です。 (5)金灯籠(きんとうろう):ご本尊の前に一対さげる灯籠で、ご本尊を明るく照らすためのものです。 (6)輪灯(りんとう):阿弥陀仏の光明をあらわします。油皿に種油をそそぎ、灯芯を入れて浄火を灯します。昨今では、電球も使われるようになりました。 (7)鈴(りん):勤行のときに打つカネのことで、それ以外には打ちません(詳細は本紙3号)。 次にご紹介しますのは、正月、彼岸、お盆、祥月命日など、特別の行事に限ってもちいるものです。 (8)供笥(くげ):八角形の台で、お供物を盛る仏具です。本来、供笥に盛るお供物は、お華束(けそく)といいまして小餅をお備えしますが、菓子や果物でもよいでしょう。左右一対にします。 (9)打敷(うちしき):金襴(きんらん)地などで仕立てた三角形の敷物で、(4)の前卓と(1)の上卓にかけます。 (10)瓔珞(ようらく):両脇の輪灯の上部に下げるもので、報恩講など大切な行事のときに飾ります。 他にも、親鸞聖人の著された『正信偈(しょうしんげ)』と「三帖和讃(さんじょうわさん)」の本を納めておく (11)和讃箱(わさんばこ)、蓮如上人の著された『御文(おふみ)』を納める(12)御文箱(おふみばこ)などもあります。また、お勤めの本を置く (13)和讃卓(わさんじょく)(経机)があると便利でしょう。 このように、さまざまな仏具があります。こうした仏具類は、宗派の違いにより形が異なりますし、また置き方もありますので、住職によくお尋ねになるとよいでしょう。あるいは「真宗会館」にお尋ねください。 お内仏に入れないもの メモを読む これまでご紹介してまいりましたように、お内仏にお飾りする一つ一つの仏具は、ご本尊の阿弥陀如来のお心を表すために使われるものでありました。また逆に、お内仏には無縁のもの(浄土真宗の教えにあわないもの)もあります。実際よく見かけるものの中から、いくつかをあげてみましょう。 (1)浄土真宗以外の仏像 浄土真宗は、阿弥陀如来一仏をご本尊とします。二仏を並べません。ですから、その他の仏・菩薩像や水子地蔵の像などはお内仏に入れません。 阿弥陀如来は、一切の人々を救おうと立ち上がられた如来さまです。苦しみと、悩み多き私たちに念仏申すことを勧めています。南無阿弥陀仏(ご本尊)がはっきりするならば、その他の教えを依り所にする必要がなくなるのです。お内仏は、阿弥陀如来の教えに人生を学ぶ、ご家庭での道場といえます。 (2)お守りやお札 浄土真宗の寺院には、お守りやお札はありません。お守りやお札は、厄除開運、家内安全、交通安全など、いわゆる祈願成就を目的とするものであります。災いを避けたいという感情はよくわかりますが、お守りやお札に災難から身を守る力が本当にあるのでしょうか。 物事の道理からすれば、善くも悪くも、私たちに起こるすべてのものは、因と縁(因縁の道理)によるのだと仏教では説きます。この道理に早く目覚め、迷わされることのない生き方を確立していただきたいと思います。 (3)故人の写真 亡き人の写真もお内仏には入れません。写真は、故人を偲ぶという意味があります。しかし、お内仏の中に飾ることによって、礼拝の対象が阿弥陀如来から写真(生前に対する思い)に変わってしまうことがあるのです。 お内仏のご本尊はあくまでも阿弥陀如来です。私たちは阿弥陀如来の教えによって初めて、亡き人を浄土にかえられた諸仏といただけるのです。 その他にも、位牌(第38 回を参照)や遺骨なども、お内仏には入れません。 お内仏のある方は、一度点検されるとよいでしょう。 お内仏のお給仕 メモを読む これまで学んできましたように、お内仏は、ご本尊・阿弥陀如来を中心に、さまざまな仏具をもって仏さまの世界(浄土)を表現しているのでありました。そして、浄土をお飾りするお内仏によって、私たちは生き生きとした精神生活の有り様を学んでいくのであります。 それには、毎日のお内仏のお給仕(きゅうじ)が大切なこととなってきます。給仕とは、一般的にお世話することをいいますが、お内仏のお飾りや作法に則り仏さまに仕えることを意味します。毎日のお給仕作法をとおして、念仏の心にふれていくのです。 ですから、単にきれいにすればいいということではなく、敬いの心をもって給仕させていただくべきものです。 平常のお給仕の留意点などについて、お話しておきたいと思います。 (1)お花をあげる。 四季折々の木花・草花を備え、いつも生き生きとした状態を保つようにします。枯れたら取り替えるようにします。造花は用いません。(「三具足 花・香・ローソク(1)」参照) (2)灯明(とうみょう)を点じる。 輪灯(りんとう)があるお内仏では、朝夕のお勤めの時に点じます。金灯籠(きんとうろう)も同様です。(「三具足 花・香・ローソク(3)」「お内仏の仏具類」参照) (3)香を焚(た)く。 毎日のお勤めの前には、線香を焚きます。線香は立てずに香炉の大きさに折り灰の上に置きます。(「三具足 花・香・ローソク(2)」参照) (4)お仏供(ぶく)を備える。 毎朝、炊き立てのご飯を一番最初に盛槽(もっそう)で形を作り、仏器(ぶっき)に盛ってお備えします。そして、正午にお下げします。(「お仏供(ぶく)」参照) (5)常にきれいにする。 香炉(こうろ)や鈴(りん)の中へ使ったマッチの軸やローソクのくずを入れません。使ったマッチの軸は、専用のマッチ消しがありますので用意されるとよいでしょう。金箔(きんぱく)の部分は、こすらないように毛ぼうきで軽く払い、漆(うるし)の部分は柔らかい布でから拭きします。 まとめてみますと、お花を絶やさず、お仏供を毎朝お備えし、灯明を点じ、香を焚き、合掌礼拝をもってご本尊にあう。お勤めをして教えにあい、念仏申す生活に帰らせていただくのです。 お勤めのこころ メモを読む お内仏(ないぶつ)は、単なる飾りではありませんので、毎日の行いが大切なことになってきます。その第一は、前号でお話しましたお内仏のお給仕(きゅうじ)です。お花を絶やさないようにし、灯明(とうみょう)を点じ、香を焚(た)き、お仏供(ぶく)をお備えし、合掌礼拝(らいはい)をもってご本尊にあうこと。 第二は、朝夕の勤行(ごんぎょう)(お勤め)です。お勤めをとおして教えにあい、真宗門徒本来の念仏申す身に帰らせていただくのです。 ところで、お経は、亡くなった先祖のためにあげると考える人も少なくありません。それは、先祖の成仏(じょうぶつ)を願い私の幸せを祈るといった先祖供養(くよう)や追善(ついぜん)供養を意味するようです。しかし、浄土真宗には読経の功徳(くどく)を亡くなった人に振り向け回向(えこう)するという教えはありません。 親鸞(しんらん)聖人は、回向の意味を私が振り向ける回向ではなく、阿弥陀如来の回向と理解されました。阿弥陀如来の教えを私の方がいただくのです。 ですから真宗門徒は従来、お勤めの意味を仏徳讃嘆(ぶっとくさんだん)、あるいは報恩感謝(ほうおんかんしゃ)といただいてきました。それは、仏の尊い徳を讃(たた)え、生かされてあることの恩に感謝するという、阿弥陀如来の教えをいただいた者のおこころなのでした。 さて、真宗門徒の日常のお勤めを申しますと、『正信偈(しょうしんげ)』に続いて念仏をとなえ『和讃(わさん)』六首(しゅ)を読むというお勤めです。最後に『御文(おふみ)』を拝読します。『正信偈』と『和讃』は親鸞聖人が、『御文』は蓮如(れんにょ)上人が著されたものです。毎日のお勤めをとおして、親鸞聖人や蓮如上人の教えにふれ、自らの生き方を確かめ学ぶのです。お勤めは仏法聴聞(ちょうもん)でもあるわけです。 『正信偈』は、覚えやすいように節(ふし)がつけられ、しかも漢文(白文(はくぶん))で読むために意味がとりづらいかもわかりません。まずは毎日の勤行をとおして、言葉に親しむことから始められることをお勧めします。朝夕のお勤めが生活習慣になるよう、心がけたいものです。 読み方がわからない方は、東本願寺から「正信偈CD」が発売されていますので、お勤めの本『勤行集(ごんぎょうしゅう)』と併せてご利用ください。詳しくは、最寄りの真宗大谷派寺院又は、真宗会館にお尋ねください。 仏間をつくる メモを読む お内仏が安置されている部屋を仏間といいます。何代も続いているお宅では、多くの場合、独立して仏間があります。昨今のアパート・マンション等の住宅では、お内仏を安置できるような造りになっていません。床の間もない場合もあるようです。 こうした住宅事情のなかで、タンスなどの上に置くことのできる小さいものや、部屋にマッチした家具調のものも流行りのようです。いずれにしましても、お内仏を安置する部屋は、客間や居間と兼用であったとしても、仏間であることに違いありません。 仏間は、手を合わせお勤めするところです。仏法聴聞の場でもあります。ですから、部屋の飾りなども、浄土真宗にそぐわないものを避け、浄土真宗に適したものにします。私たちの手で浄土真宗の仏間を作るのです。その仏間からまた、浄土真宗の教えが伝えられていくのです。 注意すべき点を記します。 遺影 遺影(いえい)は、お内仏の真上には飾りません。遺影がご本尊の上になってしまい、どちらが礼拝の対象なのか曖昧になってしまうからです。遺影を飾る場合は、真上をさけ、横に掛けます。もし真上に飾り物をする場合は、仏語(仏さまの言葉)を掲額(けいがく)するようにします。 床の間の掛け軸や額 床の間がある場合には、教えが書かれたものなど、浄土真宗に相応(ふさわ)しいものを用意します。年中掛けっぱなしにするのではなく、行事毎や四季毎に取り替えるなどの工夫があってもよいでしょう。 浄土真宗以外の仏・菩薩(ぼさつ)の絵像や十三仏絵像、天照大神など、他宗教・他宗派のものは床の間に掛けません。また、除災招福(じょさいしょうふく)の縁起物や祈祷札(きとうふだ)なども置きません。 いただいた物 頂戴した物やお土産品などは、一度お内仏にあげ、手を合わせて、仏さまからのお下がり物としていただきます。私たちは、いのちをも仏さまからいただいているのですから、お内仏中心の生活を心掛けたいものです。備える場合は、お内仏の中には入れず、お内仏の外に備えます。