浄土真宗の法名は、宗祖親鸞聖人が自らを「釋親鸞(しゃくしんらん)」と名告(なの)られていたことから、男性は「釋○○」、女性は「釋尼○○」と、必ず「釋」の字を用います。
この「釋」の字は、仏教をお説きくださいましたお釈迦さまの「釈」の字で、仏弟子として生きることを示し、私たちにかけられた「生まれた意義と生きる喜びに目覚めてほしい」との願いが込められています。
たとえ世間での名前や職業は様々であっても、仏法僧の三宝の前にすべての人々が等しく「釈」を名告る、平等な世界をあらわしています。そのような意味で、法名は本来、生前に名告るものです。
仏教では、仏法僧の三宝に帰依することが望まれています。「仏・法・僧」とはなんでしょうか?「仏」は「仏さま」です。「法」は「仏さまの教え」です。仏さまやその教えに帰依する、頼りにするということはお分かりいただけるかと思います。
それでは、「僧」とはなんでしょう?「お坊さん」だと思われた方も多いのではないでしょうか。「坊主なんか頼りにできるか」とお思いの方もいるかもしれませんね。実は、「僧」とは「仏さまの教えに出会った仲間」を意味するのです。この文章をお読みになったあなたも仏法に触れているわけです。あなたは既に「僧」の一員なのです。
亡き人によって仏法に出会う縁をいただいた、そのご恩を思う時、仏さまに包まれて生かされている温かみを感じます。
法名を名告るということは、仏の子として人生を歩ませていただくということです。母親が我が子に無条件の愛情を注ぐように、仏さまも私に分け隔てない愛情を注いでくださっています。
一方で、戒律を守り、修行をし、仏道を歩む身となるとき、「戒名」を名告ります。しかし、戒律を守るということは、それが出来る人間と出来ない人間を生み出すことになります。誰に対しても平等に教えられるはずの釈尊の教えが、特定の人にしか通じないものとなってしまいます。そのような状況を、私たち自身が生み出しているのです。また、「戒名」を名告りたいのならば、「戒名」に恥じない行いをすべきであるのに、そうはならない。「戒名」をいただいただけで安心してしまう。
そう、つまり我々には、どのような修行もかなわないのです。では、何をやっても無駄なのか。親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」と念仏申す道を顕してくださいました。何をやってもかなわぬ身が、「南無阿弥陀仏」と念仏申せば救われる。そのような教えを説いてくださった親鸞聖人は自身を「釈親鸞」と名告られました。親鸞聖人の教えに共感したものが、「釈○○」を名告るようになりました。この「釈○○」という名告りを「法名」といいます。
世事から離れ、悩みや不安を滅するために名告るのならば、「法名」も、また「戒名」さえも、自己満足の呼び名に過ぎません。自分だけの満足を求めるあゆみのために、仏弟子として歩む名「法名」があるのではありません。誰もが悩みや不安のなかを生き、その誰もにお釈迦さまは教えを説いてくださいました。そこにこそ平等ということが成り立つのです。その平等の世界を歩む私となる。自己満足を越えた、皆の平等性に目が向けられるようになることが、「法名」を名告るということなのです。
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