耳を澄ます−亡き人の声なき声に−
身近な人の死は、死を見ないようにして生きてきた私の心を大きく揺さぶりながらやってきました。

私がこれから大切にしなければならないこと

それは、身近な人の死という《いのちの事実》を直視し、私が死から学ぶ、死から新しく何かを生み出していくということです。



お葬式と一言でいっても、様々なお葬式があります。会葬者が多く、盛大なお葬式。近親者のみでお送りするお葬式。「送る会」と称してお別れをする人も増えてきました。しかし、どのようなお葬式であっても、ひとりの人の一生が終わったという事実には、変わりがありません。



愛する人、親しい人との別離は、残された私にとってはとても大きな出来事です。他人事のように思っていた死が、今身近なこととして起こっているのですから。



そのような時にあたって、大切な方の死に接した私たちが大事にしたいことは、亡き人の声なき声に耳をすますということです。耳をすますとは、一体どういうことなのかを一緒に考えてみたいと思います。ある方の体験談をご紹介します。





――――私の父は末期の癌でした。あと三ヶ月のいのちという宣告を受けてから、看病の日々が始まりました。私の人生の中で、この時ほど父と対面したことはありませんでした。皮肉なものです。そして、やがて訪れる死という事実を、この時ほど意識したこともありませんでした。

宣告からちょうど三ヶ月目の早朝、私の見ている前で、父はいのちを終えていきました。眠るように静かにとはよく聞く言葉ですが、決してそのようなものではありませんでした。もがきながら、苦しみながら息を引き取っていきました。その光景は今もまぶたに焼き付いています。

その日の夜、父をよく知る先輩が弔問に来てくださいました。そのときの言葉が今でも忘れられません。

「なくなったお父さんは、人に何かを教えるとか、説教くさいことを言うことは一切なかったけれども、人生の一番最後に、『人間が死ぬということはこういうことだ。よく見とけよ。』と、体を張って語っていったな」

本当にその通りだと感じました。人が死ぬことのすさまじさや悲しさ、葬儀を行うことの大変さと、そして大切さを、父は言葉ではなく体全体で語っていきました。そのような声なき声を父は確かに残していきました。――――



当然のことですが、亡くなった人がものを言うはずはありません。しかし、声は発していないけれど、体全体で私たちに語りかけ、訴えかけてくるものが確かにあるはずです。お葬式とは、亡くなった方の安らかな眠りのためのものではなく、私が亡き人からの声なき声を聞くためのかけがえのない場なのだと思います。

今、私たちは人間の死と向き合っています。亡くなった人は自らの身をもって「人は必ずいのちを終えていく」ということを教え、「やがて死んでいくいのちをどう生きていくのか」という問いを投げかけています。そのような声なき声を聞き続けていく中に、たとえ死に別れた人とでも再び会える世界があるのではないのでしょうか。
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