「人は同じところに居ても会えたとは言えない。同じ土壌に立つとき、本当に出会える世界がある」
自死や殺人事件が目につきます。事件が起こるたびに「いのちの大切さ」が説かれますが、事件は絶えません。私たちは、人はいつか死ぬと分かってはいても、死を遠ざけて生きています。それが幸せなことと錯覚しながら。以前は、老人が病気になると、家の者が看病し、そして死にゆくときは家の者がその姿を目に焼き付けたものでした。核家族化が進み、共働きが当たり前になり、施設も整っている現代において、人が老いて、死にゆく様を目にすることは稀なこととなりました。直に「死」に触れる機会が減っています。

「生」のみが強調され「死」から目を遠ざけている現状のなかで、「いのちの大切さ」を訴えても、響きづらいものがあります。



葬儀において、食事を「お清め」と言ったり、葬儀から自宅に帰ると「清め塩」といって塩を自分の体にかけたりします。生きている我々に災い(「死」)が降りかからないようにしようしているのでしょうか。涙を流してまで別れを悲しむのに、次の瞬間には亡き人を穢れの対象にしてしまいます。

或いは、死別を受け容れられず、いつまでも悲しみに沈む方もいます。

死を忌み嫌う、或いは死を受け容れられない。しかし、「死」は、いつかは自分にも訪れる事実なのです。そのことを、私たちは亡き人を通して学ばなければいけません。



「生」のみを考えていたら生き生きとした人生が見えてくるかと思っていたが、人はいつかは死ぬという事実に目を向けたときに初めて人生が輝いてくるのです。

前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え(『安楽集』)

長寿とは、一人の人が長く生きることではなく、人の「死」を通して、後の人がいのちの有限性を学び続けていくことなのです。



「亡き人の冥福を祈ります」とか「安らかにお眠りください」ということをよく耳にしますが、それは「生」にのみ関心がある我々の思いでしかありません。亡き人は、死んでからも私に「いづれは死にゆく身を、あなたはどのように生きるのですか」と呼びかけてくださっているのです。

私が、亡き人からの呼びかけに耳を澄ますとき、初めて亡き人と同じ土壌に立ったといえるのです。

悲しいものです。亡き人は、自分の身をもって「死」の事実を私に伝えようとしているのに、私は「死」から目を遠ざけているのですから。



人は毎日多くの人と出会っています。しかし、本当に出会ったといえるでしょうか。

人は、自分と意見の合う人どうしでかたまり、少しでも意見の違う者は排除してしまいます。しかしそれでは、「死」を遠ざけて「生」が見えないのと同じように、自分のことを本当に想ってくれる人の存在も見失ってしまいます。家庭・職場・学校など、分かり合える人がいるべき場所に、そのような人がいない。しかしそれは、見方を変えると、自分と合わない人を遠ざけている自分の姿が見えてきます。そういう姿がある限り、本当に人と出会うということはありえません。


毎日顔を合わせる人とでさえ、本当に会うということは難しいものです。しかし、同じ土壌に立つことが出来たとき、たとえ死に別れた人であろうとも、出会える世界があるのです。
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