仏事(ぶつじ)としての葬儀
今、私たちはかけがえのない人の死に出会いました。心の中では様々な思いが駆け巡っていることでしょう。
つい先日まであたたかい言葉を交わしていた方も、今は無言のまま静かに身を横たえているだけです。何も語らない亡き方を前にして、死という事実に直面した私たちには使命があることを感じます。それは、生きて在る私たちが、その「死」を確かに受けとめて、泣き方の声なき声を聞き届けていくということです。
遺族の方はもとより、会葬の方にも亡き方と真向かいになって、一人の人間の死という事実をどこまでも自分自身の問題と受けとめていくことが「仏事としての葬儀」になるのです。
一般に、通夜・葬儀の場は形式や世間体が重んじられますが、くれぐれも遺族と会葬者の挨拶だけに始終しないよう心がけたいものです。
最後の贈りもの
39歳で癌告知を受けた平野恵子さん*は、病床から子どもたちへメッセージを送りつづけました。
「人生には、無駄なことは、何一つありません。お母さんの病気も、死も、あなたたちにとって、何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。大きな悲しみ、苦しみの中には、必ずそれと同じくらいの、いや、それ以上に大きな喜びと幸福が、隠されているものなのです。(略)たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、いつか、それが人生の喜びに変わるときが、きっと訪れます。深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があることを忘れないでください。そして、悲しむ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていてくださる大地のあることに気付いてください。それが、お母さんの心からの願いなのですから。」(法蔵館『子どもたちよ、ありがとう』より)
平野さんは、「死は、多分、それがお母さんからあなたたちへの最後の贈りものになるはずです」と書き遺していかれました。
悲しみをとおして
愛する人、親しい人との別離ほど悲しく寂しいことはありません。しかし、どれほど辛くても亡き方の死を「最後の贈りもの」として受けとめ、仏法(ぶっぽう;真実の教え)にふれる縁とすることが願われています。
*平野恵子 1948年生まれ、真宗大谷派速入寺前坊守。三児の母。
39歳で癌告知を受け、病床生活2年の末41歳で命終。
リーフレット「葬儀を縁として」より
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