お通夜・葬儀生のみが我らにあらず、死もまた我らなり我らは生死を併有するものなり 私たちは、今生きてあることにのみ私があり、人生があると考えます。しかし、お釈迦さまは、私の人生の中に、生もあり、また死もあるのだと教えられています。 その「いのちの事実」に立って、自らの人生を受け止め、そして歩めと、亡き人が教えてくれているのです。 私がそのことに向き合える機会として、真宗の葬儀があるのです。 記事一覧 葬儀を縁として 記事を読む 仏事(ぶつじ)としての葬儀 今、私たちはかけがえのない人の死に出会いました。心の中では様々な思いが駆け巡っていることでしょう。 つい先日まであたたかい言葉を交わしていた方も、今は無言のまま静かに身を横たえているだけです。何も語らない亡き方を前にして、死という事実に直面した私たちには使命があることを感じます。それは、生きて在る私たちが、その「死」を確かに受けとめて、泣き方の声なき声を聞き届けていくということです。 遺族の方はもとより、会葬の方にも亡き方と真向かいになって、一人の人間の死という事実をどこまでも自分自身の問題と受けとめていくことが「仏事としての葬儀」になるのです。 一般に、通夜・葬儀の場は形式や世間体が重んじられますが、くれぐれも遺族と会葬者の挨拶だけに始終しないよう心がけたいものです。 最後の贈りもの 39歳で癌告知を受けた平野恵子さん*は、病床から子どもたちへメッセージを送りつづけました。 「人生には、無駄なことは、何一つありません。お母さんの病気も、死も、あなたたちにとって、何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。大きな悲しみ、苦しみの中には、必ずそれと同じくらいの、いや、それ以上に大きな喜びと幸福が、隠されているものなのです。(略)たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、いつか、それが人生の喜びに変わるときが、きっと訪れます。深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があることを忘れないでください。そして、悲しむ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていてくださる大地のあることに気付いてください。それが、お母さんの心からの願いなのですから。」(法蔵館『子どもたちよ、ありがとう』より) 平野さんは、「死は、多分、それがお母さんからあなたたちへの最後の贈りものになるはずです」と書き遺していかれました。 悲しみをとおして 愛する人、親しい人との別離ほど悲しく寂しいことはありません。しかし、どれほど辛くても亡き方の死を「最後の贈りもの」として受けとめ、仏法(ぶっぽう;真実の教え)にふれる縁とすることが願われています。 *平野恵子 1948年生まれ、真宗大谷派速入寺前坊守。三児の母。 39歳で癌告知を受け、病床生活2年の末41歳で命終。 リーフレット「葬儀を縁として」より 迷信? 記事を読む 真宗では「清め塩」を使いません 清め塩は迷信です。 魔を祓うために棺の上に刃物をのせたり、火葬場で遺骨の箸渡しをするなど、葬儀では、仏教とは無縁の迷信的な風習が伝えられています。「清め塩」もそのひとつです。清め塩は、葬儀の際、玄関先に置かれたり、会葬者に礼状とともに渡されたりしており、清めることをごく当たり前のように思っている人が多いようです。 「死」は穢れたものではありません。 しかし、この塩で、いったい何を清めようとするのでしょうか。日本には古くから「死を穢れ」とする考えがありました。その理由は様々伝えられていますが、いずれにしても「死(者)」に触れ関わることは、わが身も穢れ、そして生者に死をもたらすと考えられたのでした。今日でも「四」の数字が「死」を連想されることから忌み嫌われ、病院やホテルに四号室が見られないのもそのためです。 けれども、生前に乳よ母よ、兄弟よ友よと呼び親しんできた方を、亡くなった途端に穢れたものとして「お清め」していくことは、なんとも無残であり、悲しく痛ましい行為ではないでしょうか? 仏教では決して死を穢れとは受けとめません。生と死を分けるのではなく「死もまた我らなり」と受けとめ、生死(しょうじ)するいのちを精いっぱいに生きていくことこそ、人間としての生き方であると教えています。 清めの行為は亡き人を貶(おとし)めていくばかりでなく、自身の生き方をも曖昧にさせる迷信であり、一切不要なのです。 心に残った葬儀 記事を読む 朝、ご門徒の娘さんから電話があった。「母が今朝亡くなりました」と。入院されていることは聞いていたが、まさか、そんなに具合が悪かったとは思ってもいなかった。ご主人の葬儀の後、住まいの近くでお墓を探されていて、たまたまうちを訪ねて下さったのがご縁であった。大学を卒業して寺に戻ってきたばかりの私を、「住職、あんた若いんだから頑張りなさいよ」といつも声をかけてくれた。お寺の行事にもよく参加して下さった。 翌朝、枕勤めに伺った。お顔を拝見しながら、信じられない思いと信じたくない思いが交錯して涙があふれてきた。お勤めの後、蓮如上人の『白骨の御文』を拝読させて頂いた。「されば明日に紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」の一節が身に響いてきた。私は、どんな別れ方だったら納得できたのだろう。私の思いの中では間違いなく、もっと生きられると思っていたし生きていて欲しかった。ご遺体を前にして、「住職、あなたも死にいく身を生きているんだよ。あなたはどういのちを終えていくつもりですか?」と問われているようであった。 仏様の教えは、人間は一瞬一瞬の縁を生きる身であると教えている。だけど、私たちは死なないつもりで生きているのではないだろうか?生きていることに慣れてしまって、朝、目を覚ました時に驚きや感動がない。同じような日常が繰り返し繰り返しやってくると疑うこともなく暮らしている。すべてが、あたり前という言葉で片付けられていく。だけど、自分にとって大切な人との別れは、悲しみと同時に真実を見ることのできない私たちの曇った眼を涙で流してくれるのではないだろうか。ご門徒さんの葬儀からたくさんのことを学ばせて頂きました。 文・青樹 潤哉(あおき じゅんや 東京都文京区 專西寺住職) 仏事一口メモ 葬儀について メモを読む 夫を亡くし葬儀をすませたという、五十歳位の女性が突然「真宗会館」をたずねて来ました。遺骨は実家の墓地ヘ、四十九日の法要はお墓のあるお寺(遠方)で勤めるということでした。 このご家庭は、東京に比較的近い新興住宅地に住む核家族です。お寺との普段の行き来は全くないようでした。夫の死後、どうも家の中が寂しく殺風景で、不安だったようです。小さな仏壇を求めたが、その後どうしたらいいのか恩い悩んでいたそうです。 そもそも仏壇(浄土真宗ではお内仏(ないぶつ)といいます)とは、一体何でありましょうか。今回からご一緒に考えてみたいと思います。 本来仏教は、生死の苦しみからの解放を説く教えです。親鸞聖人の先生であった法然上人は、「生死(しょうじ)出(い)ずべきみち」をただ一筋におっしやっておられたそうです。生きることの苦しみや死の不安からの解放を一心にお説きくだされたということでしょう。 ところで、浄土真宗のお内仏の始まりをたずねてみますと、ご本尊をお掛けして礼拝勤行(らいはいごんぎょう)するところから出発しました。つまり、花を備え、香を焚き、ロウソクを灯して、仏法聴聞(ちょうもん)したわけです。そうして多くの人が、生まれた意義と生きる喜びに目覚める人生を仏教に学んでいかれたのです。(床の間はご本尊を安置するところから生まれ、仏間ができてきたといわれています。また、現在一般化されている箱型の仏壇は、江戸時代中期以降からもちいられているようです) 蓮如上人は「本尊は掛けやぶれ、聖教(しょうぎょう)はよみやぶれ」と語られました。何度も何度もご本尊をお掛け(当時はその郡度掛けた)し、お聖教(仏様の教えを記す書)を読み、仏様の心をいただいて生きていくことが人間として大切なことだと教えてくださっているのです。 こういう意味からしますと、現在一般化されている箱型の仏壇にしなければならないということは決してありません。団地やアパートなど、狭い部屋で仏壇を置くスペースがない場合は、タンスや本棚の上をきれいにして、三折(みつおり)本尊を置き、その手前に三具足(みつぐそく)(花瓶(かひん)・香炉(こうろ)・燭台(しょくだい))を設ければ、お内仏として成り立つわけです。 臨終にのぞんで メモを読む 都下の団地に住む男性N夫さん(45歳)が、妻のS子さん(40歳)と長男(15歳)・長女(10歳)の子ども二入を残して急死しました。 病院から知らせを受けたS子さんは、急いで駆けつけ遣体と対面しました。そして、亡き夫を自宅に引き取り、布団に寝かしましたが…。 このように、いつ、どこで肉親の死がおとずれるかわかりません。呼んでも応えることのない死の悲しみが、じわじわ込みしげてくるのも、この時です。S子さんにとって、夫の死は戸惑いと悲しみばかりでありましょう。しかし、いつまでもじっとしているわけにはまいりません。 まず、ご親戚に連絡します。そして、手次ぎの寺(日ごろ世話になっている寺)の住職に亡くなったことの報告をします でも、S子さんは初めての経験で、日ごろお世話になっているお寺がありません。また夫の郷里のお寺は連隔地。団地近くのお寺もわかりません。 ここで大事にしていただきたいことは、葬儀を営むに当たっての宗教の選びです。郷里の手次ぎ寺にお願いする、あるいは生前信仰していた宗教で行うのも方法でありましょう。しかし、それらがかなわないならば、なおさらその選びを大切にしていただきたい。 従来、葬儀は宗教をもってなされてさました。人間の理知では計り知れない死がもつ不安や恐れ、あるいは深い悲しみの心が宗教にその救いを求めてきたからでもありましょう。浄土真宗は、仏の教えをもって、生きることや死ぬことの不安や苦悩・恐れの心から超え出ることを説いているのです。 夫の死を目の前にした今、このことをゆっくりと考えてもいられません。日ごろから限を向けて、仏法に触れておくことも大切なことです。 真宗会館では、仏の教えを聞く会を毎週おこなっています。行事案内をご参照ください。また、当会館を会場に通夜・葬儀が行えます。ご来館・ご相談ください。 通夜までの心得(1) メモを読む S子さんは、突然、夫を亡くしました(前号参照)いつまでも悲しんでばかりもいられません。通夜・葬儀にむけて準備をしなければなりません。今回からは通夜までの心得などについて、順を追ってお話しします。 まず、家族が中心になり湯灌(ゆかん)を行います。湯灌は、ご遺体をぬるま湯で拭き、清らかにすることを意味します。最近では、アルコールを含ませたガーゼや脱脂綿で拭くことが多いようです。昨今、この湯灌を病院や葬儀社が行うようになりましたが、やはり家族が中心となって行うべきでありましょう。 拭き終わりましたら、耳・鼻・肛門などに脱脂綿をつめ、眼と日を閉じ、衣服を整えます。男性はヒゲを剃り、女性には薄化粧をしてあげます。胸の上に両手を組ませ、木製の念珠をかけます。そして布団をかけ、顔は白い面布で覆います。 ご遺体は、本来お内仏(仏壇)のある部屋に安置します。ところが、S子さんのお宅には、お内仏がありません。このような場合、お寺にご相談されるとよいでしよう。 そして、遺体を納棺するまでは頭北面西(ずほくめんさい)にします。これは、お釈迦さまご入滅のお姿にならって行われていますが、必ずしも方角にこだわることなく部屋の状況に応じて決めてくだざい。 このとき、衣服を逆にかぶせたり、屏風(びょうぶ)を逆さに立てたり、あるいは魔よけと称する守り刀は全く意味がなく不要です。 次に、枕飾(まくらかざ)りの準備をします。ご遺体の枕辺に小さな机あるいはお盆を設け、白布をかけ、香炉とロウソク立てをおきます。 香炉には、香を燃じて絶やさないようにします。これを不断香(ふだんこう)といいます。異臭のにおわないようにするためです。また、ロウソク立てには明かりを灯します。お別れに見舞った人にお顔がよく見えるようにするためです。 よく、枕飾りに一膳飯(いちぜんめし)や枕団子(まくらだんご)などをお供えする場面を見受けますが、浄土真宗では必要ありません。 通夜までの心得(2) 枕勤めについて メモを読む 家族の人が亡くなった場合、まず、ご親戚に連絡するとともに、お寺の住職に亡くなったことの報告をします。そのことは、すでにお話ししました。そのとき、住職には「枕勤(まくらづと)め」(臨終勤行(りんじゅうごんぎょう)または枕経(まくらぎょう)ともいう)のご依頼をします。また、今後の相談もされるとよいでしよう。 今回は、その枕勤めについてお話しします。枕勤めは、臨終にあたって、故人と共に家族が合掌礼拝してきたお内仏(仏壇)のご本尊に、家族(親戚)みんなでお参りすることをいいます。そのお勤めを住職にお願いするわけです。 すでにお話ししましたように、夫を亡くしたS子さん宅には、お内仏がありません。お寺への報告の際、住職に相談し、ご本尊をお迎えしましよう。 浄上真宗のご本尊は、阿弥陀如来です。阿弥陀如来は、私たちに真実(まこと)に目覚めよと、常にはたらきつづけています。お内仏のご本尊は、そのはたらきを形にまで表された尊いお姿なのです。 肉親の死は、つらく悲しい心を引き起こします。そればかりでなく、亡き人がどこに行ってしまったのか、今どうしているのか、という思いも起こることでしょう。 そういう問いを抱えながら、亡き人が身をもって教えてくださった死の事実をとおして、逆に私たちは、生きていることの尊さを仏さまの教えに訪ねていく、その第一歩が枕勤めです。そして、これから始まる一連の儀式(通夜や葬儀など)を、仏さまの教えに出遇(あ)う大事な機縁にしていただきたいと思います。 このときの服装については、急なことですので、華美でない平服でかまいません。また、数珠(念珠)を忘れないようにします。 枕勤めが終わりましたら、通夜・葬儀の詳細など、住職と相談されるとよいでしょう。葬儀社との打ち合わせも必要です。 通夜までの心得(3) 友引について メモを読む 通夜・葬儀にあたり、決めなければならないことがあります。まずは喪主(もしゅ)の決定です。喪主は、いわばお悔やみを受ける遺族の代表者です。故人に最も近い人(配偶者やその子など)がなるのが一般的です。 次に、通夜・葬儀の日時や会場です。 葬儀の日取りを決めるときに、暦法の一つの「友引(ともびき)」を忌(い)み嫌う風習が根強くありますが、これは全く仏教とは関係なく意味のないことです。 「友引」とは、陰陽道(おんみょうどう)でいう六曜(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)の一つで、日の吉凶を占うものとして使われたといいます。もともとひは「共に退(ひ)く」ということで、何事も引き分けで勝負がつかないという意味でした。それがいつしか死者が友を引くと忌み嫌われるようになり、友引には葬儀を出さないという俗信(迷信)になったようです。 親鸞聖人は、「吉良日(きちりょうにち)を視(み)ることを得ざれ」と教えられています。つまり、仏・法・僧に帰依するならば、日の善し悪しをみる必要はないということです。 すでにお話ししましたように、葬儀は、残されたものが仏さまの教えに遇う大事な機縁になるものです。日の善し悪しに執(とら)われることのない人生を仏さまの教えに訪ねていただきたいと思います。昨今では、友引にあたる日を定休とする火葬場が多いため、その日の火葬は不可能になっていますが、都合によっては友引にあたる日に葬儀を行い、別の日に火葬をしてもかまわないわけです。 日時や会場のほか、通夜・葬儀とを執り行うにあたり、世話役をはじめとする各係も必要となります。世話役は、喪主や遺族にかわって葬儀終了までの一切の実務の中心になる人です。係は、受付・接待・会計・会場整埋・炊事などです。必要に応じて依頼します。 最近では、式場づくりをはじめ、通夜・葬儀のほとんどを葬儀社が行ってくれます。葬儀社には何を依頼し、何を自分たちで行うかを、十分、打ち合わせましょう。 通夜までの心得(4) 納棺 メモを読む 通夜までに、ご遺体をお棺におさめます。これを納棺(のうかん)といいます。納棺は、できるだけ近親者で行うようにしましょう。服装は白服、または生前に愛用していた清潔な服を着せます。 納棺のさい、故人の愛用品を入れることがありますが、火葬の関係上、金属製のものや陶器などの燃えにくいものは避けなければなりません。 また、湯灌(ゆかん)(遣体をぬるま湯などで拭き、清らかにすること)がおすみでない場合は、納棺の前に行います。(湯灌は第9回を参照) 通夜にお参りしますと、死装束(しにしょうぞく)を身につけておられるご遺体を見受けることが、よくあります。死装束とは、経帷子(きょうかたびら)とよばれる白い着物を着せ、頭には三角形の頭巾(ずきん)、手には手甲(てっこう)をつけ、足には脚絆(きゃはん)を巻き、白たび草鞋(わらじ)、首からは頭陀袋(ずだぶくろ)をさげ、手には杖(つえ)を持たせるという出で立ちをいいます。 これは、人が死んで冥土といわれている世界に旅だつ姿をいうようです。 しかし、このような死装束は、民俗信仰や俗信などが重なって成立したものといわれ、浄土真宗の教えとは全く異なるものです。 浄土真宗では、従来、人が亡くなりますと、浄土に還られると表現されてきました。つまり、私たちは、死んで冥土に旅だつのではないということです。 親鸞聖人は「煩悩成就(ぼんのうじょうじゅ)の凡夫(ぼんぶ)…正定聚(しょうじょうじゅ)に住するがゆえに、必ず滅度(めつど)に至る」と語っておられます。煩(わずら)い・悩み、怒り・腹立ちの絶えない身を生きる私たちが、仏さまの大いなる法のいのちに目党めて、生かされている身と気づくとき、必ず滅度(涅槃(ねはん))に至る身と定まるという意味です。 私たちは、縁あってこの世に生を受けました。すでに生かされてある事実、そして、仏になる身と約束された事実を説くのが浄土真宗です。この意味で、死んで冥土に旅だつという考えは棄(す)てるべきです。亡き人に死装束は、全く意味のないことなのです。 一般的に行われているからといって、そうした支度(したく)をすることは、かえって死者を冒とくすることにもなります。 通夜までの心得(5) 葬儀壇 メモを読む 白宅で通夜・葬儀を営む場合、納棺(のうかん)が終わりますと、すぐに式場の準備にかかります。派手な装飾品などは取り除き、衣類など必要なものは取り出しやすいところに用意しておきます。着替えや休憩のできる住職の控室も必要です(室数がなければ、式場に控え席を用意します)。 自宅以外の会場(寺院や会館など)で営む場合は、会場側とよく相談して式場作りを行ってください。 次に、斎壇(さいだん)(壇飾り)についてお話しします。斎壇の荘厳(お飾りのこと)は、今日、ほとんど葬儀社が行ってくれます。しかし、浄土真宗にそぐわないお飾りも見受けますので、心したいものです。 浄十真宗の通夜・葬儀は、ご本尊を中心に行います。ですから、ご本尊は、参列する誰もが拝することのでさる中央上部に安置し、その手前にお棺を置きます。早いうちに住職に相談し、ご本尊をお迎えしましょう。 昨今、通夜・葬儀にお参りしますと、斎壇の壇数を多くしたり、種々の飾りつけをするなど、豪華さばかりが目につくようになりました。 古来、葬儀は、“野辺(のべ)の送り”といって、自宅から葬列をくんで葬場に向かい、そこでお勤めするために野卓(のじょく)に・三具足((みつぐそく)(紙花(しか)・お香・ロウソク)を用意してお飾りしました。その野卓が、現在では屋内に設ける葬儀壇の基本になるわけです。ですから、浄士真宗の通夜・葬儀では、本来、壇飾りの必要はありませんし、華美に飾ることもいりません。 ご遣族の心情として、立派な斎壇にしてあげたいという気持ちはよくわかりますが、それにとらわれてしまうと、何のために通夜・葬儀を行うのか、その大切なこと(第10号を参照)が見失われてしまいます。 また、最近では、写真を飾ることが一般的になってきました。写真の陰になってご本尊を拝することができない場合もあります。礼拝すべきは、写真ではなくご本尊です。本来は必要ないものですが、写真を置く場合には中心からずらすなどの工夫が必要でしょう。 通夜について メモを読む いよいよ通夜勤行(つやごんぎょう)(通夜のお勤め)の時間が迫ってきました。今回は、通夜についてお話しします。 通夜とは、遺族をはじめ縁のある者が夜を通して、葬儀までの間、亡き人を偲び、静かにご遺体を見守るというのが本旨です。ですから、お勤めの間だけを通夜というのではありません。身近な人の死という現実を謙虚に受け止め、口ごろ忘れがちな「生死(しょうじ)」の問題について、深く考える一夜にしていただきたいと思います。 故人は人生の最後に、身をもって教えてくださっています。それは、「人はみな死ぬ」という事実です。つまり、この私も、必ず死を迎えなければならない生を送っているということです。 そしてそれは、「死と隣り合わせで生きているあなたは、これからどのように生きるのですか」という、亡き人からの問いかけでもありましょう。 故人とは生前中、ケンカもし共に笑いもし、いろいろなことがあったことと思います。さまざまな思い出がよみがえってくることでしょう。しかし、それらすべてが、何かを教えていることではなかったでしょうか。夜を通して、お互いに話し合えれば、通夜の本旨に適(かな)うことでありましょう。 さて、お勤めの時間が近づきました。お勤めは、仏さまの教えに出あう大切な縁になるものです。お勤めや住職のお話(法話)をとおして、生きていることの尊さを仏さまの教えにたずねていただきたいと思います。 それでは、喪主、近親者、遠縁の順に席につきましょう。弔問者の座る順番は、事情のある場合を除いて、前から順次座っていただくとよいでしょう。お勤めは、住職と共に『正信偈』を一緒に唱和します。合掌は、住職に合わせて行ってください。このとき、数珠を忘れないようにします。 最後に、通夜の服装についてですが、最近では礼服で弔問に来られる方が多くなりました。遺族の方も礼服(喪服)を着用されていたほうが失礼にならないと思います。 通夜ぶるまい メモを読む 通夜のお勤め、住職のお話(法話)、そして弔間者の焼香(焼香については、第五回を参照)が終わりますと、喪主(もしゅ)または喪主にかわる遺族の代表のあいさつがあります。明日の葬儀をひかえて取り込んでいるため、あいさつは、短く要点をおさえた内容がよいでしょう。その一例を紹介します。 本日は皆さま、お忙しい中を亡き○○の通夜に駆けつけてくださり、心からお礼申し上げます。(次に、亡くなるまでの経過や家族の心境などを語られたり、また、葬儀当日のご案内などをされるとよいでしょう) お急ぎでない方は、このあと簡単な食事(通夜ぶるまいのある場合)を用意いたしましたので、どうぞお召し上がりください。本日は、どうもありがとうございました この「通夜ぶるまい」といいますのは、通夜にお参りされた方にお斎(とき)(葬儀・法事などの仏事のときにいただく食事)でおもてなしすることをいいます。お斎は、飲み食いすることを楽しむための食事ではありません。亡き人を偲びつつ、あるいは法話を聞いたものがそのことをお互いに語りつつ会食する(仏さまと共に仏弟子が食事をいただく)という、仏事のひとつとしてあるものなのです。 お斎を共にいただきながら「あなたは、必ず死を迎えなければならない身をこれからどう生きますか」という、亡き人からの問いかけを深く語り合えますならば、亡き人のそしてふるまう側の願いに適(かな)うことでありましょう。 ともすると、急ぎ駆けつけてくださった方を十分もてなしたいという気持ちから、派手な食事内容になりがちですが、好ましいものとは言えません。食事の中身よりも、仏事としての中身を大切にしていただきたいと思います。 また、昨今、通夜の席で「通夜ぶるまい」をいただきますと、生寿司や刺し身などの料埋が目立つようになりました。本来、仏事における食事は精進料埋(肉・魚介類を用いない、野菜や穀類、海草類の料埋)なのです。このことも十分心し、改めていきたいものです。(精進の意味については、別の機会に譲ります) 葬儀と迷信 メモを読む 通夜がつとめられ、明ければ葬儀をいとなむことになります。 葬儀とは、身近な人の死という現実を誰にもさけられない事実として真剣に受け止め、亡き人とのお別れを告げる儀式ということにとどまらず、その人の生涯を偲びつつ、私たちの生きる意味を仏さまの教えに問いたずねていくという厳粛な儀式です。 にもかかわらず、葬儀(枕勤めや通夜などを含みます)には、仏教とは無縁で、逆に人の心を惑わす迷信や奇習(きしゅう)などが、実(まこと)しやかに行われるのを多く見かけます。 例えば、魔除けと称する守り刀をお棺の上にのせる、一膳飯(いちぜんめし)やお水を供える、出棺に際してお棺を三回まわす、生前愛用していたお茶碗を割る、火葬場の行き帰りの道を変える、火葬場での飲食の残りはすべて置いて帰らなくてはいけない、日本酒を「お清め」と称して飲むことなどです。 また、その「お清め」ということで申すならば、ほとんどの通夜・葬儀の際には、お礼状とともに「清め塩」と書かれた小袋が会葬者に渡されています。この「清め塩」で、何を清めようというのでしょうか。 もしそれが、死の穢(けが)れを清めるという意味であれば、亡き人は穢れたものとなり、葬儀自体も穢れた行為となってしまいます。生前に親しかった人も、亡くなれば「穢れたもの」として「お清め」することは、全く道理に合わない、痛ましいことです。 果たして死者は、穢れているのでしようか。仏教では、決しで「死」を「穢れ」と受け止めません。仏教は、身近な人の死という現実の中で、死という事実を静かに受け止め深く考え見つめていくことこそが、今を生きている私の生きる責任であり、また人間としての大切な生き方であると教えているのです。 大切なことは、生まれる・老いる・病む・死ぬという人間の予測できない事実として「死」を受けとめ、残った一人ひとりが生きる意味を見いだすことです。 私たちは、現に風習として根深く残存している迷信や奇習を明確に否定していきたいものです。 葬儀 メモを読む 本来、浄土真宗の葬儀式は、まず自宅のお内仏(仏壇)の前で出棺の勤行を行ったのち、参列者が行列を組んで葬場へ向かい(これを野辺送りといいます)、そこで葬儀のお勤めをしました。そして、最後のお別れののち火葬したものです。 しかし、今日では、出棺の勤行と葬場の勤行とを回じ式場で、時刻を定めて(例えば、「葬儀・告別式○時~○時」というふうに)つづけて行う「告別式」形式が一般的になっています。 社葬などの大規模な葬儀では、先に葬儀を営み、別に日時を定めで告別式を行うこともあるようです。告別式は、文字どおり個人とお別れを告げる儀式といえましょう。 葬儀に参列しますと、「ご冥福をお祈りします」とか「安らかにお眠り下さい」という言葉をよく耳にします。 身近な人の死を、冥福(死後の幸福)を祈ることで、あるいは安らかに眠らせることで、本当に亡き人に応えることになるのでしょうか。 浄土真宗の葬儀は、葬儀に参列した一人ひとりが、生きる意味を仏さまの教えに問いたずね、真実の教えにあう仏事です。仏さまの大いなるいのちのはたらきを依り所として、生まれたことの意味を感得し、生きていることに心から喜べる生活こそが亡き人に応えることなのです。 さて、いよいよ葬儀の時間が追ってきました。葬儀の次第について、簡略に申しますと、 遣族・親戚・参列者着座 導師(住職)入場 開式の辞・総礼 勤行 総礼・閉式の辞 導師退場 という形になります。 4の勤行の間に、導師の焼香・表白、弔辞等があります。勤行中、喪主・遺族・近親者・遠縁の順に焼香を行います。一般会葬者の焼香は、喪主・遺族等につづいて行うか、別の焼香台で行います。お参りには数珠を忘れないようにしましょう。 弔電は必ずしも披露する必要はありませんが、扱露する場合は勤行後に行うべきでしよう。 出棺 メモを読む 葬儀(告別式)のお勤めがすみましたら、遺族・親族・近親者でお別れの対面をします。故人を偲(しの)びつつ、静かに合掌しお念仏申します。お別れが終わりますと出棺です。 出棺に際しては、喪主または親族の代表が、会葬者にお礼の挨拶(会葬御札)を述べます。挨拶は、短く要点をおさえましょう。 その内容は、 会葬者に心から感謝の意を表する 故人への厚情を謝し、生前中のことにふれる 遺族へも故人と同様の厚誼(こうぎ)をお順いする 残された家族一同、精進して生きる決意を述べる と、なりましょう。 葬儀での挨拶をお開きしますと、「冥土(めいど)に旅立つ」「草葉のかげから見守る」「天国に昇る」「安らかに眠る」などの言葉をよく耳にします。それらは、死後の世界を想定し、人が亡くなると、その世界に行くという考え方です。 浄土真宗では従来、人が亡くなると、「浄土にお還(かえ)りになられた」と表現してきました。浄土(仏さまの世界)は、死後の世界を想定して言うのではありません。浄土とは、仏さまの教えに出あい、生きる知恵と勇気と安心を腸(たまわ)った者のみが感得する世界のことなのです。その感得こそ、亡き人を浄土に還られた仏として受けとめることができるのです。亡き人を仏として合掌し、お念仏申すのも、亡き人からの問いかけ、命の尊さに気づかされてのことなのです。 最後に、会葬御礼の一案を簡略してご紹介します。 本日は、故○○・法名釈○○の葬儀にあたり、ご多用中ご会葬くださり、誠にありがとうございました。 故人の生前中、公私ともに一方ならぬご厚情を賜り、厚くお礼申し上げます。故人は、賜った命を大切に生きてきましたが、このたび○○歳で浄土に還りました。 私ども遺族は、肉親の死をとおして、今ほど命の尊さを感じたことはありません。この思いを故人の願いと受けとめ、いただいた命を一日一日、精いっぱい精進して生きていこうと思います。 今後とも、故人同様のご指導・ご鞭撻(べんたつ)を腸りますようお願い申し上げます。 火葬・還骨 メモを読む 火葬場に着きますと、順次焼香をし、荼毘(だび)(火葬)にふします。火葬にかかる時間は、約1時間です。この間、控室で待つことになります。 控室では、お互いに故人を偲ぶとともに、通夜などのときにお話しいただいた住職の法話(浄土真宗の話)を思いおこし、深く味わうことも大切なことです。 火葬が終わりますと、遺骨をひろい、壷に納めます。遺族は、身近な人の生身の姿からお骨になるまでの姿を、短時間のうちに目の当たりにすることになります。このような姿に接しますと、いよいよ人間の空しさ・はかなさが実感されることでしょう。 「…朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕べには白骨となれる身なり。…野外におくりて夜半(よわ)のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。…人間のはかなき事は、老少不定(ふじょう)のさかいなれば、たれの人もはやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきなり」 これは、蓮如上人の「白骨(はっこつ)の御文(おふみ)」の一節です。私たち人間は、朝には元気な姿であつても、タには白骨となる身を生きています。老人も若者も区別なく、誰もが同じ無常の身を生きているのです。いつ死を迎えるかわからない身だからこそ、何はさておいてもただ今の人生に心を向けよて、南無阿弥陀仏を真の依(よ)り所に生きなければなりません。 蓮如上人が語る「念仏もうす」人とは、無量の寿(いのち)に目覚めて生きる人です。それは、悔いのない確かな人生を知った人です。 さて、遺骨と共に自宅に戻りますと、お内仏(仏壇)の近くに壇を設けて遺骨を安置して、お勤めをします。このお勤めを「還骨勤行(かんこつごんぎょう)」といいます。この勤行のおり、今の「白骨の御文」が拝読されます。心静かに拝聴したいものです。きっと、蓮如上人の語りかけが亡き人の問いかけと重なって聞こえるに違いありません。 お内仏がない場合のお飾り等については、住職にお尋ねされるとよいでしよう。 御布施(おふせ) メモを読む 葬儀には、住職に差し上げる包みもの(御布施(おふせ))も準備しなければなりません。今回は、この「御布施」についてお話しします。 布施の語源をたずねてみますと、古代インドの言葉でダーナといい、慈悲の心をもつて施すこと(喜捨(きしゃ))を意味しています。そして、仏教では、布施を次の3種に分けています。 法施(ほうせ)(仏さまの教えを説き開かしめること) 財施(ざいせ)(衣食などを施すこと) 無畏施(むいせ)(畏れのない安心を施すこと) 住職に差し上げる御布施は、この財施にあたります。 日ごろの私たちは、品物やサービスの売買という経済感覚(利潤の追求)で物事を計ってしまいます。御布施に関して、「いくらお包みしたらよいのですか」という質間をよく受けますが、この感覚も同じように思えます。 そしてこの感覚は、仏教が伝えてきた人間のいのちそのものにも値段をつけてしまうことになるのです。本来、人間の尊いいのちには値段をつけられるものではありませんし、ましてや、他人にも決められるものではないのです。 故人は死をとおして、「人はみな死ぬ」という事実を身をもって教え、「これからどのように生きるのですか?」という、大切な問いを投げかけてくださいました。その問いに応(こた)えることは、生きていることに心から喜べる生活に目覚めることなのでありましょう。この目覚めこそが、尊いいのちに生きる新しい「私の誕生」を意味するのです。 尊いいのちにあい得た法施の喜びは、喜んで捨てるという財施の心を生みます。 ですから、大切な人を亡くした大きなご縁に差し上げる御布施は、亡き人への、そして仏さまへの精一杯の報謝(ほうしゃ)の気持ちを表すものなのです。 さらには、その尊い志は仏法に生きる新たな人を生み育てることにもつながるのです。 このような意味から、包みもの(金封)の上書きには、「御経料」や「読経料」ではなく「御布施」と書くのです。 葬儀を終えて メモを読む いま1度、葬儀について考えてみたいと思います。 中2のご子息・誠君を亡くされたお母さんは、こうおっしゃっています。 「法要も読経も合掌して念仏称えるのも、亡くなった誠のためという考え方は、とんでもない見当ちがいでした。仏になった誠からいただくばかりの私だったと気づかされ、<マーちゃんありがとう>と手を合わさずにはおれません。住職さんが<誠君は人生の先生です、恩師です>といわれたのが、はっきりわかりました」(『同朋新間』から) この言葉から、次のことが教えられます。 読経や合掌は亡くなった人のためではない。 仏さまに手を合わす心。 住職の仏道への確かな導き。 葬儀でよく耳にする「ご冥福(めいふく)をお祈りします」「安らかにお眠りください」は、まさに亡き人のための手の合わせ方なのでしょう。お母さんは、慰霊(いれい)の寺参りを欠かさなかったといいますから、死後の間違いのない幸福を祈ったに違いありません。自らの力ではどうすることもできないお母さんは、悩み・苦しみ、何度も自殺を考えたそうです。ところが、浄土真宗の教えを聞き、住職と言葉を交わすうち、何がなんでも自分の思いどおりに運ばせたいという自我の執着にどっぷりつかっていた自分がわかってきたといいます。 浄土真宗の教えの言葉が亡き誠君からの無言の呼びかけとして、間こえてきたのでありましょう。お母さんは誠君から、人間としての生き方を教えられ続けていたのです。それが、「誠からいただくばかりの私だった」という気づきではないでしようか。ここに、亡くなった誠君を仏さまと仰ぎ、合掌(礼拝(らいはい))せずにはいられない心が生まれてきたのでしょう。 通夜・葬儀は、慌ただしく始まり、慌ただしく終わります。だからといって、単なる一過性のものではありません。残された人生を仏さまから、そして亡き人から聞きたずねる大切な時間なのです。葬儀を終えて後も、住職の法話を大切にされ、自らの確かな人生を学び歩んでいただきたいと思います。 中陰 メモを読む 人が亡くなってからの49日間を「中陰(ちゅういん)」といいます。この期間は、特に身近な人の死が、悲しみとともにいよいよ実感されるときでもありましょう。 ところで、一般的な中陰の考え方を申しますと、中陰とは、人が亡くなってから新たに生まれ変わるまでの中間的なあり方をさしていわれています。この中陰の間に、残された者が、7日ごとに故人の冥福を祈り追善供養をなせば、死者はその功徳を受けて必ず善処生まれるという考え方です。 このような来世を想定し追善供養を勧める考え方が、実は真実の仏教とは無縁の、人の心を惑わすさまざまな迷信・俗信を生んできました。すでにお話ししました、死装束といわれる死者の旅姿や魔よけと称する守り刀を棺の上にのせるなどが、それに当たりましょう このような背景には、迷わずに成仏してほしいという亡き人への思いがあるからでしょう。このおもいがいかに切なる願いであっても、我執に基づくものである限り、ますます人間を迷いの世界に導くだけであります。亡き人への供養と申しても、思い上がりというほかありません。 そういう人間自身のもつ深い心の闇を見据えて、親鸞聖人は、「現世(げんしょう)に正定聚(しょうじょうじゅ)のくらいに住する」という教えを説かれました。「人間の知恵では計り知れない仏さまの大いなるいのちに目覚めることができました。そのいのちを真の依(よ)り所として生きていきます。ですから、来世の幸せを願う必要もありませんし、過去を悔やむ必要もなくなりました」という、亡き人も残された者も共に救われる教えです。 私たちにとって、まず大切なことは、「いまある人生をどう生きるのですか」「真の依り所をもって生きていますか」という仏さまからの、亡き人からの問いかけに静かに耳を傾けることです。生まれた意味や生きる喜びに出あうとき、亡き人に手が合うのです。 浄土真宗の中陰(49日間)は、身近な人の死の事実をとおして、人間としても生き方・あり方を仏さまから学ぶ大切な期間なのです。 中陰の過ごし方 メモを読む 中陰の数え方 初七日 (しょなのか) 死亡した日から数えて7日目 二七日 (ふたなのか) 死亡した日から数えて14日目(2週目) 三七日 (みなのか) 死亡した日から数えて21日目(3週目) 四七日 (よなのか) 死亡した日から数えて28日目(4週目) 初月忌 (しょがっき) 初めて迎える命日 五七日 (いつなのか) 死亡した日から数えて35日目(5週目) 六七日 (むなのか) 死亡した日から数えて42日目(6週目) 七七日 (なななのか) 死亡した日から数えて49日目(7週目)満中陰という。 これまで、葬儀を縁にして、さまざまなことをお話ししてきました。その中でも一貫して述べてきたことは、残された者が生きる喜びや生まれた意義に気づいていくことの大切さです。 浄土真宗では、人が亡くなりますと、「浄土にお還(かえ)りになられた」と表現します。亡き人を、浄土に還られた仏(諸仏)として受けとめる教えだからです。このことは単に、人が亡くなれば浄土に還り仏になるという理屈ではありません。 亡くなった方が浄土に還り仏になられたということは、私がどう生きるのかということを抜きにしてはないわけです。つまり、残された者自身の生き方が亡き人(死)から問われ、一切の人々を救うと誓われた仏さまの大いなるはたらきに出あう縁となるかどうかです。 私たちが、これまでの自分の生き方や生涯を振り返るのは、正にこの時でありましょう。そこに、生かされている身に生きる喜びへの感謝の心が生まれるのです。この一点に立って初めて、浄土に還られた仏さまとして、亡き人に手が合わされてくるのです。 慌ただしく過ぎ去る葬儀後のこの中陰の期間にこそ、じっくりわが身を振り返りたいものです。そして、肉親の死を意味あるものと受けとめるためにも、仏さまの教えを聴聞する生活が願われます。 この期間は、お内仏(仏壇)の近くに壇(これを「中陰壇」といいます)を設け、法名・ご遺骨・遺影を安置します。(仏事一口メモ19号挿絵参照) 中陰の期間は、ともすれば中陰壇が中心になりがちですが、礼拝(らいはい)の対象はあくまでもご本尊(阿弥陀如来)です。お内仏のない場合は、住職に相談し、早い時期にお迎えすることをお勧めします。 中陰の七日ごとの数え方は、表の通りです。家族そろってお参りしたいものです。 なお、四十九日(満中陰)を迎えますと、仏さまとともに生活を始める出発点という意味を含め、ご遺族・ご親戚などの近親者が集まって法要を営みます。みなそろって住職の法話に静かに耳を傾けましょう。 納骨 メモを読む 納骨は、四十九日(満中陰)の法要以後に行います。実際には、地方(地域)の習慣や家庭の事情等により、葬儀終了後に納めたり一周忌などのご法要に併せて行うなどさまざまです。 私たちにとって、身近な人の死の事実を短期問に受け入れることは、なかなか客易なことではありません。働き盛りの夫を亡くされた妻や子にとりましては、生きる望みが失(う)せましょう。子を亡くされた両親にとりましては、今にも「ただいま-」と帰ってくるのではないかと思う日々がつづくかもしれません。生前中の閥係が深ければ深いほど、亡き人への思いは離れがたいものです。 しかし、亡き人は、いつまでも嘆き悲しみ、暗く落ち込むような生き方を望んではいないはずです。むしろ、人間として立ち直り、活き活きと生きることを私たちに望んでいるのではないでしょうか。 ですから、ご遺骨を中陰壇(前回参照)にご安置することは、決して、ご遺骨(故人)にすがりつくためではありません。死の事実を見つめ、亡き人から私にかけられた願いを仏さまの教えに聞きたずね、真の依り所をもって生きなさいとの促しではないでしょうか。そのことに気づいて初めて、嘆き悲しむしかない生き方が転ぜられ、亡き人に手が合う新しい人生が始まるのです。 残された者にとって納骨とは、死の事実を厳粛に受け止めるとともに、これからの人生の出発を意味する大切な儀式でありましょう。 納骨の際には、「埋葬許可証」が必要になります。この許可証は、墓地の管理者にお渡しください。 さて、本山であります京郡の東本願寺では、須額弥壇収骨(しゅみだんしゅうこつ)といいまして、分骨が納められます。また、親鸞聖人のお墓所であります大谷祖廟(おおたにそびょう)(東本願寺から車で10分程度)では、分骨も全骨も納められます。このような東本願寺や大谷祖廟への納骨には、人間としての生き方を指し示す親鸞聖人の教えを、自らの依り所に生きようとする願いが込められているのです。 東本願寺や大谷祖廟への納骨等については、「真宗会館」までお尋ねくたさい。 とり急ぎの弔問 メモを読む 今回から、弔問 (ちょうもん)・会葬 (かいそう)の心得についてお話しします。 まず、危篤 (きとく)の知らせを受けたときは、すぐに駆けつけるようにします。危篤を知らされるということは、最後に一目でも会わせてあげたいという家族の願いです。一刻も早く駆けつける努力が大切です。 服装は平服でかまいません。もし、遠方の場合は、万一のことを考え、喪服の準備も必要でしょう。ただし、家族の気持ちを考慮して、気づかれないように配慮します。 次に、訃報 (ふほう)を受けて弔問するときは、亡くなった人が近親者や親戚、友人や知人、会社関係者で対応が異なります。 近親者や親戚の場合は、すぐに駆けつけ、お悔やみを述べ、そして、世話役や家の中の整理、接待等の手伝いをするつもりで出かけます。服装は平服でかまいませんが、派手な服装はさけます。 友人・知人の場合も、急ぎ弔問に駆けつけます。服装は平服でかまいません。とくに親密な交際でない場合は、お悔やみを述べて、改めて通夜、葬儀に参列します。 会社関係の場合は、会社の方針があればそれに従うことになりますが、個人的にお手伝いしたい場合は会社にその旨を伝えておくべきでしょう。 隣近所の場合は、親しく近所づきあいをしていたときは、すぐに弔問に出かけ、手伝いを申し出ます。また、町内会でとりもつ場合は、それに従うようにします。 訃報を受けての取り急ぎの弔問のときは、とくに香典・供物はいりませんが、数珠を忘れずに持参しましょう。焼香の準備が整っている場合には焼香します。 遺族から故人との対面を請われた場合には、その意 (こころ)をくみ、つつしんで対面(イラスト参照)させていただきます。 通夜参列の心得 メモを読む 通夜は、遺族やごく親しい人々が夜をとおして、亡き人を偲(しの)び、静かにご遺体を見守るという厳粛な場です。そして、身近な人の死という現実を謙虚に受け止め、日ごろ忘れがちな生死(しょうじ)の問題(亡き人の問いかけ)について深く考える時でもあります。 通夜はこのような大事な席です。知らせを受けたときは、できる限り出席するようにします。通夜開式には遅れないように出向くことも大切です。 受付があれば、香典を差し出します。香典とは、仏前にお備(そな)えする香にかわる金銭という意味です。表書きには「御香典」か「御香資」または「御香料」と書きます。決して「御霊前」とは書きませんのでご留意ください。 御香典は、受付の方が読みやすいように相手側に向けて差し出します。受付がない場合は、喪主または遺族の方に差し出すか、仏前に備えます。仏前に備えるときは自分の方に向くようにします。 受付に出す 相手が表書きを読みやすいように向けて差し出す。 仏前に備える 表書きの自分の名前が、自分の方を向くように、両手で備える。 葬儀に参る(1) メモを読む 葬儀は、基本的に、遺族や故人と特に親しかった方々が集まり、故人を悼み仏さまの徳を讃える儀式です。また、告別式は、友人や知人が故人と最後のお別れをするための儀式になります。多くの場合、葬儀と告別式を兼ねた形式で葬儀が行われます。社葬など、規模の大きな葬儀の場合には、葬儀と告別式を分けて(時間をずらして)行われることがあります。 葬儀の時間は、火葬場の予約時間に合わせて決められている場合が多く、時間厳守を心掛けるようにしたいものです。会場に到着しましたら、すぐに受付をすませておきます。受付では深く一礼し、ひとこと挨拶をします。芳名帳に記入し、香典を差し出します。受付がない場合は、焼香のときに仏前に香典を備えます。 式場に入りましたら、式場係の案内に従うようにします。もし知っている人と顔を合わせても、挨拶をしたり話し込んだりせずに、軽く会釈をする程度にとどめておきましょう。携帯電話の呼び出し音が鳴らないようにしておくこともマナーの一つです。 儀式の中ほどに、順次、焼香の案内があります。焼香の作法は各宗派によって異なりますので、ご自分の信仰する宗派の作法を覚えておきたいものです。真宗大谷派では、次の順で行います。 仏前に進み、ご本尊を仰ぎ見て軽く頭を下げる。 焼香は二回。右手で香をつまんで香炉の中に入れる。このとき香をいただくことはしない。 合掌し、静かに念仏(南無阿弥陀仏)を称え、礼拝する。終わり次第、もとの席に戻る 葬儀に参る(2) メモを読む 故人を弔い、お別れの言葉を述べるのが弔辞です。故人と特に親しかった人は、葬儀や告別式で弔辞を頼まれることがあります。 弔辞は普通、二、三分程度で終わるぐらいの長さがよいでしょう。内容は極端に美辞麗句で故人をほめちぎるようなことはせず、素直に自分の気持ちを言葉にしたいものです。 それぞれの立場で内容は異なりますが、弔辞作成にあたってのポイントをあげてみます。 死を悼み、素直に悲しみをあらわす。 故人の生前の人柄や業績を偲んでたたえる。 遺族を慰め励ます。 残された者としての決意を述べる。 最後に別れの言葉で結ぶ。 次に、友人代表を例に文案を紹介します。 謹んで○○さんに、お別れの言葉を申し上げます。君の突然の訃報を聞いたとき、私は思わず耳を疑いました。ウソであってほしいと、どんなに思ったことか。 もう二度と君のあのやさしい言葉が聞けません。君のあの元気な顔が見られません。 そう思うと、ただただ悲しみで胸が痛むばかりです。 思えば、……(故人の人柄や思い出、業績などを述べる) 残されたご家族の皆さまは、この逆縁を機に、一層団結して生きていかれると思います。 私たちも今後、君が身をもって教えてくれた命の尊さ、人生の無常さをしっかりと心に刻みつけ、一生懸命に生きていこうと思います。それがとりもなおさず、私たちへの君のメッセージだと信じるから。○○さん、さようなら。 ○年○月○日 友人代表 ○○○○ 葬儀に参る(3) メモを読む 葬儀に参列して気をつけたいのが、お悔やみの言葉です。「死」に対する考え方が宗教により異なりますし、同じ仏教でも宗旨・宗派によって違いますから、当然信仰の持ち方でお悔やみの言葉が変わることにもなります。しかし現実には、曖昧なまま使われている場合が多いように思います。 私たち浄土真宗では「死」をどうとらえ、亡き人をどういただいていくのかをよく考え、言葉遣いに注意を払いたいものです。 さて、一般的なお悔やみの言葉をあげてみましょう。 「このたびは、誠にご愁傷さまでございます。心からお悔やみ申し上げます」 「このたびの突然のご逝去、あまりのことで何と申し上げてよいかわかりませんが、心からお悔やみ申し上げます」 等が考えられます。お悔やみは基本的に言葉を少なくし、声も抑えて述べるようにします。逆に聞き取りにくかったり、途切れがちになるのも失礼にあたります。 また、過剰に取り乱したりしますと、かえってご遺族を困らせることにもなりますので、気をつけたいものです。ご遺族の気持ちや式の流れを 慮 り、慎み深く挨拶するよう心がけましょう。 次に、弔電の文案も記します。 「ご逝去を悼み、慎んでお悔やみ申し上げます」 「○○さまのご逝去の報に接し、心から哀悼の意を表します」 よく耳にする「ご冥福をお祈りします」や「安らかにお眠りください」等は、浄土真宗に合わない言葉になります。「浄土真宗にあう言葉とあわない言葉」(一覧表)を参照しつつ、アレンジされるとよいでしょう。 教えにあう言葉 あわない言葉 浄土 彼の土 西方浄土 極楽浄土 草葉のかげから 黄泉の国 天国 冥土 浄土へ還る 往生する 冥土に旅立つ 天国に昇る 安らかに眠る 神のもとに召される 永眠する しのんで念仏する 悼む 悔やむ 冥福を祈る 霊をなぐさめる 浄土に還った方 成仏した方 地下の故人 霊 御霊(みたま) 葬儀に参る(4) メモを読む 葬儀は、おおむね次のような順で進められます。 遺族・親族・参列者着座 導師(住職)入場 開式の辞・総礼 勤行 総礼・閉式の辞 導師退場 (4)の勤行のときに弔辞や焼香があります。 導師が退場されますと、遺族・親族・近親者はお別れの対面をします。故人を偲びつつ、静かに合掌しお念仏を申します。 対面が終わりますと、棺のふたを閉めます。その際、釘打ちの儀式と称する行為を見受けますが、浄土真宗では行いません(後述)。 出棺に際し、喪主もしくは遺族代表の会葬御礼の挨拶があります。静かに拝聴しましょう。挨拶が終わりますと、遺族・親族は、棺を乗せた霊柩車を先頭に、それぞれ車に分乗して火葬場に向かいます。友人・知人の方で同行を希望される方は、事前に申し出ておくべきでしょう。 なお、会葬御礼を拝聴し、出棺の見送りが終わりますと、一般会葬者は解散になります。 《釘打ちについて》 棺のふたの釘を近親者が石で順番に叩く行為。一説には、死者への未練を断ち、死霊を封じ込める意味があるといわれています。浄土真宗は霊魂不説の教えであり、死者を忌み嫌い封じ込めるような考え方をしません。私たちは、亡き人を仏の教えに導いてくださる諸仏といただきます。ですから、釘打ちは必要ないのです。 葬儀に参る(5) メモを読む 葬儀が終わりますと、世話役の方や親戚、また特に親しかった方に感謝の意を込めてお斎(食事のこと。「精進落とし」ともいわれる)がふるまわれます。勧められたときには遺族の気持ちをくんで、遠慮せずに出席されるとよいでしょう。食事をいただきながら、故人を偲びつつ、通夜・葬儀で気づかされたことを語り合うようにしたいものです。 度をすぎて食べたり飲んだり、宴会のように騒ぐのは迷惑です。故人がにぎやかなことが好きだったという場合でも、度を過ぎた飲食は控えるべきでしょう。遺族のお開きのあいさつがあり次第、長居をせずに席をたちましょう。ご遺族もお疲れのことと思います。 式場によっては通夜式後の食事や葬儀後の食事を「清め」といわれます。また食事する場所を「清め所」ともいわれます。果たしてそうなのでしょうか。 浄土真宗は身を清めるという考え方をしません。清めの行為は、死あるいは死者を不浄と忌み嫌う考え方から生まれてきたものと思われます。不浄なもの(死)に触れたから我が身を清めるということでしょう。 しかし死は、不浄なものではありません。私たち生あるものが持っている現実です。この現実と常に向き合うからこそ、輝く生が芽生えてくるのではないでしょうか。浄土真宗の葬儀はこのことを教えようとしているのです。 食事をいただきながら、そのことに話が及ぶならば、亡き人への思いも変わるはずです。大切なことではないでしょうか。亡き人からの問いかけを真摯に受け止めてください。 葬儀に参列できないときとり急ぎの弔問 メモを読む 訃報を知りながらも、やむを得ない事情で葬儀に参列できない場合があります。また、葬儀後に訃報を知ったということもありましょう。このような場合のお悔やみの伝え方について考えてみたいと思います。 訃報の知らせを受けていたのであれば、弔電を打つことも香典を代理人に依頼することもできましょう。自分の言葉でお悔やみを伝えたい場合は、葬儀後すみやかに弔問にうかがうか、お悔やみの手紙を添えて香典を郵送する方法もあります。 弔問にうかがう場合は、先方の都合を聞き、できるだけ早めにうかがうようにします。先方宅に着きましたら、御香資(香典)をご仏前に備え、香を焚き、合掌礼拝をします。お互いに時間が許すならば、故人との関係を振り返り、人生を語り合うことも大切なことです。それが適うならば意味のある弔問になりましょう。 次に、お悔やみの手紙は故人の死を悼み残された家族をいたわる内容にするとよいでしょう。形式にとらわれることはありませんが、書くにあたっての留意点をあげてみます。(1)時節の挨拶を省略して主文から始める、(2)故人との思い出や関係を述べる、(3)参列できなかったお詫びを記す、(4)遺族への励ましと結びの言葉等、となりましょう。 文案を紹介します。 ○○様のご逝去を知り、心からお悔やみ申し上げます。○○様は……(故人との思い出や関係を述べる)。すぐにでもお悔やみにうかがうべきところですが、……(理由)のため、それもかないません。後日、改めてお参りに寄せていただきますので、お許しください。同封のもの、ささやかではございますが、ご仏前にお備えください。 合掌 親族の場合は、訃報の知らせを受けた後、できるだけ早い段階でお悔やみと、参列できない旨のお詫びを喪主に伝えるべきでしょう。生花やお供物を備える場合もあるでしょうから、親族同士の打ち合わせも必要です。