末法五濁の有情の 行証かなわぬときなれば
釈迦の遺法ことごとく 龍宮にいりたまいにき
(真宗聖典500頁)
この親鸞さまの御和讃をいただくと、末法五濁の有情とは、この私のことだということがよくわかる。真宗大谷派の教団は、京都の東本願寺を中心に仏教界の一大勢力となっている。だが、本願を信じ、念仏申さば、仏になる、という親鸞さまの教えは残されていても、ことごとく観念の世界にもてあそばれて、私の生活と無関係になっているのではないか。
五十年に一度の、親鸞さまの御遠忌だと、宗門はお迎えの準備に追われている。宗門の御遠忌だから、みんなで協力してこの大事業を成し遂げるのは当たり前だ、という。だがそれだけでは、打ち上げ花火の催しのようなもので、大事業を成し遂げたから、これで楽々したと、それだけで終わってしまうのではないか。
どのお寺でも、年に一度、宗祖親鸞聖人の報恩講が勤められている。だが気になることがある。それは一年の最大の寺の行事だからと、総力を挙げて勤めるのだが、御満座のお勤めが終わると、みんな楽々したと、満足して終わってしまうのではなかろうか。
如来大悲の恩徳讃の後に、親鸞さまの、
不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して
罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり
(真宗聖典505頁)
(お念仏の教えがわかったつもりになっていて、消化不良をおこしている証拠には、阿弥陀さまに脊を向け、儲かった損した、勝った負けたと一喜一憂して、浄土の一歩手前で居眠りしている)
という御和讃が続いている。これは誰のことを言っているのか、と、自分に問うところから、親鸞さまの御遠忌の第一歩が始まるのではなかろうか。
| 文・高松 信英(たかまつ しんえい 長野県飯田市
善勝寺住職) |
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