宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要
御遠忌に思う2 (東京教報No.147 掲載)
かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして  天地の鬼神を尊敬す
『愚禿悲歎述懐』(真宗聖典509頁)

 全国に真宗寺院が建ち並び、法衣を身につけた真宗僧侶は、毎日仏前でお勤めを続けている。だが、『正信偈』のお勤めをたどたどしく一生懸命に学んだ頃は、新鮮であった。何もわかっていない私がここにいる、ということが、よくわかっていたからである。それなのに毎日お勤めをしていると、お聖教を暗記してしまう。そうなるとお勤めも新鮮味がなくなり、口だけは上手に間違いなく動いているが、頭の中は、全く関係のないことを考えている、という、離れ業ができるようになる。いつの間にかお聖教はボタンを押すと流れるという、法衣をまとっている人間コンピュータになってしまっている。
 世の中が忙しくなり、土曜、日曜、祝日の休みに法要が集中し、僧侶がやっていることは、死者のための追善供養にほかならない。「有難いお経を読んでいただいて、亡き祖父母たちも喜んでくれるでしょう」と施主は礼を述べる。その言葉を裏返せば「亡き人のためにお経を読んでもらわないと、バチがあたる」と言うことになる。いつの間にか真宗門徒も、親鸞さまが悲しまれたように、亡き祖先や親たちを、生きている私たちの生殺与奪を支配する鬼神に祭りあげているではないか。
 御遠忌を迎えるにあたり、まず真宗寺院に身を置くものは、南無阿弥陀仏の教えに学んでいない私をごまかさずに見つめ、聞法の原点に立ちたいと思う。

文・高松 信英(たかまつ しんえい 長野県飯田市 善勝寺住職)
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