如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じて、未だ六部を信ぜず。このゆえに聞不具足とす。
(『教行信証』信巻 真宗聖典240頁)
親鸞さまは『涅槃経』より、この聞不具足の教えをいただかれた。「お前は、偉そうな顔をして、何でもわかったようなつもりで真宗寺院を預かっているが、教えの半分しかわかっていない、聞法の消化不良ではないか」と、厳しい眼を向けられている。私たちは親鸞さまが心血を注いで聞き開かれたこの教えを、他人事のように眺めてはいないだろうか。そして、教えが私のところまで届いていないのは、私の人生を問わないで(読誦に能わずして)、人に語っているからだ、と。さらに私はわかっている、お前はわかっていないと、威張るために(議論のため)、あるいはあの人はたいしたものだと、周りの人たちに認めさせるために(勝他のため)、あるいは自分だけが、ぬくぬくとした生活ができるように(利養のため)、そして、阿弥陀さまの世界に生まれるという後生の一大事を忘れて、世間の幸せを求めることに埋没して(諸有のため)仏法を利用してはいないかと、聞法の消化不良について厳しく教えられているではないか。
御遠忌は、お祭り騒ぎではない。何でこの不景気な時期に金のかかる事をやるのか、などという声も聞かれる。生活水準が低く、厳しい毎日の生活の中で、お念仏の教えと共に「おかげさまで」と、人生を全うされた、先人の足跡を尋ね、本当の聞法者とならなければ、「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし」という感動もなく、「こんなはずではなかった」という嘆きだけが残るのではなかろうか。
| 文・高松 信英(たかまつ しんえい 長野県飯田市
善勝寺住職) |
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