宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要
御遠忌に思う4 (東京教報No.149 掲載)
菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあたをなす
頓教毀滅のしるしには   生死の大海きわもなし
(『正像末和讃』 真宗聖典501頁)

 私たちはいつの間にか、道を求める心を失ってしまった。それなのに、日常の意識の上では、自分は僧侶として道を求めていると思っているのではなかろうか。お念仏の教えを聴こうとしない人を見て、あの人たちは教えに耳を傾けようとしない、と批判する。いつの間にか、自分自身は偉い人間になったかのような錯覚に陥っているのではなかろうか。
 南無阿弥陀仏の教えは、愚夫、愚婦のための教えだといわれてきた。つまり、偉い人になると南無阿弥陀仏の教えは聞こえてこないと教えられてきたのだ。それなのに私たちは、知らず知らずのうちに偉い人になってしまっている。偉い人は、ただ教えが聞こえないだけでなく、念仏の教え一つに生きる人を馬鹿にして、当然救われるはずの人を妨害しているのに気がついていない。宗門に身を置きながら、宗門を有名無実にしているのは、ほかならぬ私自身なのだ。この自覚がない限り、御遠忌もお祭り騒ぎに終わるに違いない。
 親鸞さまは、誰でもただちに救われる教えをぶち壊しているのは、自分自身なのだと私たちに教えられているのだ。その証拠には、「生死の大海きわもなし」、みんな、夢と希望を持って幸せになろうと思い、儲かるか、損するか、勝つか、負けるか、という生活に没頭しているうちに、気がついたら老病死の壁にぶつかり、「こんなはずではなかった」と八方ふさがりを嘆いているではないか。
 毎朝、「正信偈」「念仏」「和讃」「御文」の教えを口にしながら、何も聞いていなかった自分が、聴聞の原点に立つことが、まちがいなく御遠忌への第一歩ではなかろうか。教えは私一人のために説かれていることを忘れると、もう真宗門徒ではなくなるのだ。

文・高松 信英(たかまつ しんえい 長野県飯田市 善勝寺住職)
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