信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も
如来大悲の恩を知り 称名念仏はげむべし
(『正像末和讃』 真宗聖典506頁)
親鸞さまのこのご和讃は、たとい、大勢の人が聞いていても、間違いなく私一人に呼びかけられている。その事がわかっていないと、自分は「信心のひと」だと思いこんでしまう。木村無相さんは「信者になったらおしまいだ 信者になれぬそのままで 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と述懐されている。法衣を身につけ、勤行する身になると、私たちは、自分は南無阿弥陀仏の信者だと思いこむ。そうなると、まわりにいる門徒衆を見る自分の眼は、いつの間にか上から見下ろす偉い人の眼になっている。「あいつは聞法に関心がない。寺に参ろうとしない。困ったものだ。」と。本当は、一番困るやつは私なのだ、ということを忘れている。間違いなく、「疑心自力の行者とは私自身なのだ。」
毎朝仏前で『正信偈』のお勤めをする。声高らかに「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と称えている。その『正信偈』に「重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと」と呼びかけられている。どんな人でも救われるという阿弥陀如来の本願がこの世に登場した。それだけで充分なのに、南無阿弥陀仏のみ名がいつも世界中に聞こえますようにと念を押されている。私たち疑心自力の行者は、念仏の教えを聞き、本願の救いが目の前にやってきていても、日常生活では、その世界への歩みをすっかり忘れている。だからこそいつも南無阿弥陀仏と称え、阿弥陀如来の世界に帰らなければならない。その事を忘れると、形だけ真宗門徒の顔をしていても、この忙しいのに、なぜ御遠忌なんていう面倒なことをしなければならないのだろうか、という、俗世間の物差しだけで動き回らなければならない。
| 文・高松 信英(たかまつ しんえい 長野県飯田市
善勝寺住職) |
|