一念多念のあらそいをなすひとをば、
異学別解のひとともうすなり
(『一念多念文意』 真宗聖典541頁)
親鸞さまは、「異学というは、聖道外道におもむきて、余行を修し、念仏を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祠をこのむものなり。これは外道なり。これらはひとえに自力をたのむものなり。別解は、念仏をしながら、他力をたのまぬなり」と教えられている。こういう教えに出会うと、私たちは、どこかにそういう間違った道を歩んでいる人がいる、困った者だ、と思う。だが、阿弥陀さまなどどこにもいない、と思っているのは、私自身ではないか。阿弥陀さまの本願が生きる拠り所になっていない人は、何か頼りになるものを探さなければならないから、日を選び、方角を選び、金と力を拠り所にして生活しなければならない。それも老病死の壁にぶつかると、何の役にも立たなくなる。そこで南無阿弥陀仏と称えれば間違いない、と自分にも言い聞かせ、人にも勧めるのであろう。だが、「念仏をしながら、他力をたのまぬ」ものには救いがない。初めて『正信偈』を習った時には、一字一句懸命に拝読していたのであろう。それがいつの間にか暗記してしまい、朝のお勤めをしながら、教えと関係のない余計なことを考えている。
だが口だけは、帰命無量寿如来、と、「私の人生の救いはこれしかないのだ」と、私に呼びかけているではないか。親鸞さまの教えは、私一人に呼びかけられている。私一人がそのすばらしさに気がつくとき、みんなが救われる。御遠忌は、どこかにいる無信心の輩を何とかしようとするのではなく、異学別解の私一人を目当てに営まれるのだ。このことを忘れると、御遠忌はその場限りのお祭り騒ぎになってしまう。心すべき事である。
| 文・高松 信英(たかまつ しんえい 長野県飯田市
善勝寺住職) |
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