弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり
法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり
(『浄土和讃』 真宗聖典479頁)
真宗門徒で仏前でお勤めをなさる方なら、だれでも知っている親鸞さまの和讃である。だが私たちは、この和讃を何度も口ずさんでいると、いつのまにか、よくわかっているような錯覚に陥り、お勤めも片付け仕事になる。
本堂の阿弥陀さまの前で、毎日勤行しているつもりになっているが、いつのまにかご本尊を拝むことを忘れ、彫刻された仏像を拝んではいないだろうか。本堂の阿弥陀さまも、家庭のお内仏の阿弥陀さまも、気の遠くなるような大昔から何世代にも渡って、その前に現れる老少善悪、煩惱いっぱいの人々を差別なく救おうと、ただ黙って見つめてこられた。仏前に出仕して、手を合わせて阿弥陀さまを拝む人に、阿弥陀さまの右のみ手は、「煩惱の眼にとらわれている今のお前だけは絶対に救われないぞ」という厳しい智慧の眼となって、問いかけられている。この声が聞こえてこなければ、「どんな人でも救われる」という阿弥陀さまの左のみ手、慈悲の眼は、私と関係のない理屈の世界に閉じ込められてしまう。『教行信證』や『歎異抄』に教えられている善導大師の二種深信は、毎日のお勤めの時、わが身に問われていることを忘れているのではないか。毎朝の仏前勤行は私の人生の真剣勝負なのだ。「法身の光輪きわもなく、世の盲冥をてらすなり」この親鸞さまの教えをわが身に噛みしめたいと思う。
御遠忌は、七百五十年前の親鸞さまのお祭りではなくて、今、私に問いかけられる親鸞様に出会って、「親鸞さま、こんなどうしようもない泥凡夫を、素晴らしい人生に導いていただいて有り難う」と心から感謝する集いでありたい。
| 文・高松 信英(たかまつ しんえい 長野県飯田市
善勝寺住職) |
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