宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要
御遠忌に思う10 (東京教報No.155 掲載)
賢者の信を聞きて 愚禿が心を顕わす
賢者の信は 内は賢にして外は愚なり
愚禿が心は 内は愚にして外は賢なり
(『愚禿鈔』)

「仏さまの大きなこころ(信)を聞いてゆくと、私のこころ(心)の姿が、はっきりしてくる。仏さまのこころ(信)は、中身が充実しているから、外側はどんなみすぼらしい姿で生活していても、少しも困らない。仏さまのこころ(信)にめぐり会った私のこころ(心)は、中身は空っぽのくせに、外側を格好良く見せなければ気が済まない。」
この教えにめぐり会って、「親鸞は中身が空っぽなくせに外側ばかり飾り立てようとしている。何と情けないことか」などと、言う人はいない。なぜならば、この教え全体が、いつの間にか賢者の信となっていて、中身が空っぽなくせに、外側だけ美しく取り繕っている愚かな私の姿が映し出されているからである。

浄土真宗の信心は、私が何かを信じるのではなくて、仏さまの広大なこころ(信)とめぐりあって、私の愚かなこころ(心)がはっきりすることに他ならない。だから『大無量寿経』の、「和顔愛語」の教えも、「和やかな顔になり、美しい言葉を使え」ではなくて、他人の恐ろしい顔や言葉を批判している私が、毎日、どんな顔で、どんな言葉をまわりにぶつけているか、まったく気がついていないことを知らねばならぬ。

親鸞さまの御遠忌も、近づいてきた。法要はお祭り騒ぎではない。自分が何かを覚えて、偉くなるのではなく、教えの鏡をいただいて、今まで全く気がつかなかった私自身の愚かな姿を知ることが、人生の新しい出発点なのだ。浄土真宗の教えは、偉い人になって威張るための教えではなく、南無阿弥陀仏の教えをみんなと一緒に喜べる道に他ならない。

文・高松 信英(たかまつ しんえい 長野県飯田市 善勝寺住職)
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