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御遠忌に思う15(東京教報No.160 掲載)
弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり
(『浄土和讃』)
今の世の中の常識では、勉強する目的は、自分がいろいろなことを覚えて、人に負けない偉い人になることだと思われている。だから学校でも知識を身につけて、まわりの人と競争して勝って偉い人になることが目標になっている。だから親鸞さまの教えを学ぼうとする人も、いつの間にか仏教の知識をたくさん貯えて、みんなから尊敬される偉い人になろうとする。親鸞さまの御遠忌を迎えるとき、私たちは、初心に帰って、南無阿弥陀仏の教えを学ぶということはどういう事なのか、はっきりさせなければならない。子どもたちは学校へ行くとき、「行って参ります」という。行く世界は何事が起こるかわからない不安定な世界である。でもどんな厳しい現実に出会っても、「参ります」という、安心できる「帰る」世界がある。学校でいやなことにぶつかっても、家に帰ってくれば、心が癒され、また新しく未知の世界に出発することができる。赤ちゃんでも同じ、お母さんの膝の上から抜け出して、這い這いをはじめ、未知の世界の探検を始める。ところが熱いものに触ったり、痛い目に遭うと、わーんと泣いて、急いでお母さんのところへ戻ってくる。これが赤ちゃんの南無阿弥陀仏である。なぜならば、お母さんの膝に戻って、安心し、また新しい未知の世界に挑戦することができる。赤ちゃんでも、南無阿弥陀仏がわかっているのに、私たち大人世代はどうか。毎日帰る世界を忘れ、儲かるか、損するか、勝つか、負けるかという現実に振り回され、本当にやらなければならないことを忘れ、やがてやってくる生老病死の現実におびえてはいないだろうか。
親鸞さまの御遠忌をお祭り騒ぎで終わらしてはならない。親鸞さまの教えの世界には、「私はもうだめだ」などという暗い世界はない。儲かるか、損するか、などという目先の現実に振り回されることなく、親鸞さまの教えに出会って善かったという喜びを心ゆくまで味わおうではないか。
高松 信英(たかまつ しんえい 長野県飯田市 善勝寺前住職)

















