心にじぃーんと法話

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お坊さんの如是我聞

真実に生きよう − 私の聞法の始まり −

仏教を学び始めたころのことです。今は亡きN先生の話を何度聞いてもよく分からず、なかば失望感とあきらめと、いらだちがありました。「何でもっと要点を分かりやすく要領よく教えてくれないのだろうか?こんなことなら何か適当な概説書でも読んだほうがましじゃないか?」そんな不満を抱いていました。

その頃、私には仲の良いTという先輩がおりました。どういうわけか、若い頃からその先生の話を聞き続けている方でした。たいへん敏感で理屈っぽい方でしたので、なおさらその先生のお話をTさんが聞き続けている理由が不思議に思えました。

ある日、N先生のお話が終わった後に、たまたま部屋には私とTさんが残っていました。私はふっとTさんにぶっきらぼうに尋ねました。「私はどうもあの先生の話が分からない。大体話は下手(理路整然としていない)だし、肝心なようなところに来ると分からなくなってしまう。何でTさんはあの先生の話をずっと聞いているのですか?」

Tさんは一寸間をおいてから「そうですね。私も未だによくわからないんですよ。ただ、私はN先生の話を聞いていて、ウソを言っていないなぁといつも感じているんです」

私にとって、このTさんの言葉が仏教を聞くについての大きな転機になったと思います。私の中にそれまであった何か殻のようなものが崩れていったような気がしました。さりげないTさんの言葉ではありましたが、その言葉によって、ひとつには「私はいったい何を聞こうと思ってここにきていたのか?」そういう問いを私に突きつけてくれました。私は仏教の理屈を理解するために話を聞きにきているわけではなかったのです。「教えに出遇い、触れる」ということは、型にはまった真実の方程式のようなものを知るということではなかったのです。

そしてもうひとつの意味で、この言葉は静かな衝撃を与えていました。それまでの人生の中で、たとえウソでないにしても、なんと多くの繕い飾られた話を聞き、自らも話してきたのだろうかということでした。一方、N先生の話は確かに聞きづらい話でしたが、自らが教えに本当に出遇ったところから、何の繕いも飾り気のなく、ふつふつと沸きあがってくる趣がありました。

この時から、仏法の話を聞くことに何かふっ切れたような感じになっていたような気がします。分かっても分からなくてもただ聞いていける。それまでは、自分の常識的な考えの中で、誠に狭くかたよりのある自分の常識と都合に合わせて聞こうとしていただけだったような気がします。そんな常識の殻に閉じ込めてしまったような話が、自らの常識の中で苦悩し、迷妄している事態に間に合うはずがありません。むしろ当たり前と思っていた自分の常識の殻に差し込んできて、その殻を開いていくような言葉が、知らず知らずのうちに耳の底に残って、迷走している自分のいのちに、ある時は厳しく、ある時はやさしく呼びかけてきてくれます。

−仏法聞き難し−。聞き難くしていたのは自分でありました。Tさんは私にとってかけがえのない恩人です。

文菅原 建(すがわら けん 東京都台東区 厳念寺住職)

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