心にじぃーんと法話

お坊さんの如是我聞

向こうからの眼差し

仏教は偶像崇拝ではないか。イスラム教からの批判です。なるほど、仏像(絵像、木像)を本尊として礼拝しているのですから、当然の批判だと思います。

でも、この頃思うのです。偶像崇拝でない仏教において、敢えて仏像を本尊と仰ぐところにとても大切な意味があるのではないかと。
礼拝の作法として、仏さまを仰ぎ見る。難しい言葉だと「せんごう瞻仰」といいます。礼拝といっても、瞑目したり、頭を下げればよいというものではありますまい。

仏さまを仰ぎ見る。目線を合わせるんですね。こういう合掌礼拝が身についてくると、或る時フッと感ずることがありませんか。私はこうして仰ぎ見ているけれど、向こうさまの眼にはどう写っているのかなーと。

何でもない、ちょっとした感じですけれど、そこは私の生活感覚を一転させるといってもいい程の、大変な場なのではないでしょうか。

大体、自分の目線というものにクェッションマークをつけたことのない私です。その私に、かなたから見られたらという感覚が芽吹いたら、すごいことです。

向こうからの眼といっても、世間の眼・ひとめを気にするというのとは違うのです。大悲のまなざ眼差し。ただの批判の眼、冷たい眼差しではありません。

この私が深く悲しまれているという事。この事一つに気づかされると、何も変らない私の生活ですが、人生の意味は一変するといったら、言い過ぎでしょうか。

文近田 昭夫(ちかだ あきお 東京都豊島区 顕真寺住職)

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