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関東における親鸞像

関東における親鸞像1

佐貫 −布教の原点−(東京教報No.142掲載)

念仏とはつねに佛心と心を通わせながら娑婆を生きることである。「生死の中に仏あれば生死なし」と夾山(かっさん)禅師は言う。人の致命傷は今の自分が深い迷いの中にいながらそれに気付かないことである。「生死の中に仏なければ生死にまどわず」とは定山禅師の言葉である。仏心に触れたことのない人は、自分が深い迷いの中にいることに気付かない。

宗祖もこのことの知的理解は得たものの、身に染みて体解するまでに若干の時日を要されたごとくである。越後流謫が解けた後に、42歳の壮年親鸞は、妻子を伴い、関東へ赴く。その途次、上野の最南端、佐貫にさしかかった時、浄土三部経を読誦しようと思い立つ。何のためか。衆生利益のためだったという。恐らく疫病や飢饉で周囲の庶民が苦悩するのを目の当たりにし、居ても立ってもいられず、自分の努力で救おうと決心したのであろう。ところが、4、5日で断念してしまう。何故か。「名号の外には何事の不足にて、必ず経を誦(よ)まんとするや。」と思い返したからであった。名号を称えつつ生きることは、すべての人に幸あれかしと願うアミダの平等の願いと心のつながりを失わぬ生活である。真に衆生利益できるのは佛心のみ。

心を先づ仏心の大地に樹てずして何をできうるのか。この深い自覚が宗祖の関東布教の原点であったのではなかろうか。

文坂東 性純氏(ばんどう しょうじゅん 東京都台東区 報恩寺前住職)

関東における親鸞像2

“私が救う”から“仏が救う”へ

「救う救わぬは如来の分限、救われる救われぬは衆生の分限」と初めて言われたのは清沢満之師か曽我量深師か判然せぬまま、曾て安田理深師から伺い、耳の底に残っている言葉の一つである。ともかく、衆生を教化したもうのは如来を措いて他にないことは確かである。

このことが宗祖のお心の底で一層明確になったのは、おそらく、佐貫での出来ごとに際してではなかったであろうか。

宗祖が常陸へ足を踏み入れて10年経った時、『教行信証』6巻の初めての草稿が形を成したという。信巻(末)(真宗聖典247頁)と化巻(本)(真宗聖典355頁)の2ヶ所に、善導大師の『往生礼讃』の中の有名な次の法語が引かれている。

自ら信じ人を教えて信ぜしむること、難の中に転たまた難し。大悲弘く普く化するは、真に仏恩を報ずるに成る。

親鸞が三部経千部を「げにげにしく」(勿体ぶって)読誦し始めたのは、“私が”衆生を済度するためであったが、それを中止したのは、この善導大師の教えがヒントとなったらしい。後年、82歳の恵信尼は夫の死去の翌年、末娘覚信尼に宛てた消息の中で次のように打明けている。

「自信教人信、難中転更難とて、みずから信じ、人をおしえて信ぜしむること、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするやと、思いかえして、読まざりし…」

法然上人は、門弟に遺言として二ヶ条を示された。(『西方指南抄』中末)一つは、一ヶ所に群居しないこと。二つ目は、もろもろの雑善を修せず、一向に念仏せよということ。佐貫において、この師の遺誡が、教化者の座を如来にお返しせよと宗祖の内心に働きかけたのではあるまいか。

文坂東 性純氏(ばんどう しょうじゅん 東京都台東区 報恩寺前住職)

関東における親鸞像3

「教行信証」の成立(東京教報 No.144掲載)

親鸞聖人の90年の生涯の間、多くの著作がなされた。一番早く成立したのは、『教行信証』(顕浄土真実教行証文類)6巻であったという。これは関東にこられてから10年目の元仁元(1224)年おん歳52歳の時であった。この年はまた、法然上人13回忌の年に当る。現在の真宗教団はこの年を立教開宗の時と定めている。浄土宗では『選択本願念佛集』が成立した建久9(1198)年を立教開宗の年とする。但し、法然は一宗を開く意図があったが、親鸞にはなく、自らを師説の継承者にすぎぬとした点が異なる。

『教行信証』の各巻の始めを開くと、『愚禿釈親鸞集』と記されている。これは自らを著者ではなく、編集者と言明していることになる。つまり、この書は自己の主義・主張を発表するためではなく、インド以来のあらゆる佛教国(西蕃・月氏・東夏・日域)の古来からの幾多の人びとの念佛生活の味わいを集大成したものであるというのである。すなわち、引用文が主人公であるような性格の書であり、これは浄土門の先覚者の主著、源信の『往生要集』、法然の『選択本願念佛集』と同一軌道上にあることが分かる。事実『教行信証』は引用文が八割を超え、ご自釈は二割以下である。念仏の深い味わいを吐露したコトバに出遇うたびごとに宗祖は躍り上がって喜んだに違いない。本書はそれら珠玉のコトバの宝庫である。この聖典は現代のわれらを「聞く所を慶び、獲る所を嘆」じた宗祖の法悦に直かに触れさせて下さるこよなき媒体でもあるのである。

文坂東 性純氏(ばんどう しょうじゅん 東京都台東区 報恩寺前住職)

関東における親鸞像4

山伏弁円の廻心(東京教報No.145掲載)

20年に及ぶ聖人の関東生活の間、聖人と出会うことによって廻心に導かれた人々が続々と現われた。その有様は、ことにご消息などを通して窺い知ることができる。しかし、多くの結縁者の中で、弁円の場合ほどドラマチックでかつ深い宗教性に富んだ事例は稀であろう、と思われる。例えば聖人が京都で80歳を迎えられた頃、常陸の人々に宛てたご消息の中で、親鸞は次のように述べている。

明法の御坊の往生のこと、おどろきもうすべきにはあらねども、かえすがえすうれしうそうろう。鹿島・行方・奥郡、かようの往生ねがわせたまうひとびとの、みなの御よろこびにてそうろう。(真宗聖典560頁)

これは何も一人の御同行が世を去ったことがめでたいというのではなく、30年ほど以前、関東で一人の人の心に生じた信心が南無阿彌陀佛という報恩感謝の生き方を生み、それが終生変らず相続したことをこの上なく慶ばしいことと称め讃えておられるのであろう。嘗ての弁円は、新参者の親鸞に多くの弟子を奪われたと思い嫉妬の念を燃やし、草庵に押しかけたところ、平常心のままで躊躇することなく迎え出た親鸞の温容に接して、廻心懺悔して、明法という法名を賜わったのであった。

学ばんとする心を微塵も持たぬ者が、教えようとする心を些かも持たぬ人に深く教えられてしまった、という摩訶不思議な出来ごとが起ったのである。この出来ごとに加えた覚如のコメントは、「不思議なりしことなり」の一言であった。救う人が不在なのに、救われた人のみがいる。布教する親鸞は不在で摂取不捨のはたらきのみがそこにあった。それにしても、力を用いずにおのずから人の心を激変させてしまう、この不思議なはたらきとは一体何であったのか。

文坂東 性純氏(ばんどう しょうじゅん 東京都台東区 報恩寺前住職)