知る・学ぶ 親鸞聖人
関東における親鸞像2
『“私が救う”から“仏が救う”へ』(東京教報No.143掲載)
 「救う救わぬは如来の分限、救われる救われぬは衆生の分限」と初めて言われたのは清沢満之師か曽我量深師か判然せぬまま、曾て安田理深師から伺い、耳の底に残っている言葉の一つである。ともかく、衆生を教化したもうのは如来を措いて他にないことは確かである。

 このことが宗祖のお心の底で一層明確になったのは、おそらく、佐貫での出来ごとに際してではなかったであろうか。

 宗祖が常陸へ足を踏み入れて10年経った時、『教行信証』6巻の初めての草稿が形を成したという。信巻(末)(真宗聖典247頁)と化巻(本)(真宗聖典355頁)の2ヶ所に、善導大師の『往生礼讃』の中の有名な次の法語が引かれている。

自ら信じ人を教えて信ぜしむること、難の中に転たまた難し。大悲弘く普く化するは、真に仏恩を報ずるに成る。

 親鸞が三部経千部を「げにげにしく」(勿体ぶって)読誦し始めたのは、“私が”衆生を済度するためであったが、それを中止したのは、この善導大師の教えがヒントとなったらしい。後年、82歳の恵信尼は夫の死去の翌年、末娘覚信尼に宛てた消息の中で次のように打明けている。

 「自信教人信、難中転更難とて、みずから信じ、人をおしえて信ぜしむること、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするやと、思いかえして、読まざりし…」

 法然上人は、門弟に遺言として二ヶ条を示された。(『西方指南抄』中末)一つは、一ヶ所に群居しないこと。二つ目は、もろもろの雑善を修せず、一向に念仏せよということ。佐貫において、この師の遺誡が、教化者の座を如来にお返しせよと宗祖の内心に働きかけたのではあるまいか。

文・坂東 性純氏(ばんどう しょうじゅん 東京都台東区 報恩寺前住職)
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